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言語学の冬:斎藤純男『言語学入門』

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年末年始は、言語学で。2冊目。 斎藤純男(2010)『 言語学入門 』三省堂 2冊目も入門書であり、言語学の諸分野がなるべく広く扱われている。章立ては、 1 音声学と音韻論 2 形態論 3 統語論 4 文章・談話研究 5 意味論 6 語用論 7 歴史言語学 8 比較言語学 9 言語地理学 10 社会言語学 11 文字論 12 言語学史 前回 の『はじめて学ぶ言語学』と比べると、文字論や言語学史など珍しい分野が扱われているほか、いわゆる言語学っぽい言語学が目立つ。前回のは脳科学や考古学や教育なども関わった、学際的で比較的新しい言語学が多かったのに対し、本書は歴史言語学や比較言語学など、伝統的な(ただし現在主流というわけではない)分野に重点が置かれていると言い換えてもよい。 本書の第一印象。網羅的かつ大変簡潔。章立てで見れば本書の方が少ないが、前回のは執筆者が面白い研究やトピックを紹介するというのだったのに対し、今回は用語や現象の羅列といった体である。例えば、前回ので1章(15ページ)が割かれていた連濁は、本書ではたった1行(66ページ)と、胸のすくような簡潔さである。説明はそぎ落とせるだけそぎ落とし、数を詰め込もうという姿勢だ。本書はその点で真の意味で非常に広く、非常に浅い。羅列とか浅いとか言うと聞こえが悪いが、つまりすこぶり平易と言うことであり飲みごたえよく、著者は一人であるため難易度も安定している。例も日英語にとどまらず、豊富で興味の深いものばかりで噛みごたえもよい。 一応入門者でない私にとっても、本書は発見の塊であった。初学者には是非おすすめ。高校生なら容易だろう。

言語学の冬:大津由紀雄『はじめて学ぶ言語学』

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年末年始は、言語学で。 というわけで、この休暇に数冊、言語学の本を読んでいくつもりだ。紹介の順番は借りた順という以外に他意はないが、初回にふさわしく入門書から。 大津由紀雄 編著(2009)『 はじめて学ぶ言語学―ことばの世界をさぐる17章 』ミネルヴァ書房 本書はICUの メジャー推薦図書 のため、いつもなにかと貸し出されていたので、やっと借りられたという感じだ。 本書の特長は、言語学の諸分野を非常に広く網羅している点だ。17章構成で、各分野の専門家16人が1章を担当している。(大津氏は2章執筆。)私なりに整理すると、 序章 基礎の基礎 1 音声学と音韻論 2 形態論 3 統語論 4 意味論 5 語用論 6 コミュニケーション 7 言語獲得 8 バイリンガリズム 9 言語理解 10 発話研究 11 認知言語学 12 言語と脳科学 13 言語の起源と進化 14 方言学 15 歴史言語学 16 言語教育 これは相当欲張りで豪華なセットである。だがやはり、広く扱うからには浅くなるのは避けられないわけで、各章の内容は非常に限られている。例えば1章は、日本語の、しかも 連濁 という現象しか扱っていない。 それに、章により難易度に差があるのは惜しいと思った。本書の対象は一応高校生以上らしいが、前提知識が必要とされることが少なくなかったので、タイトル通り「はじめて学ぶ」人には、正直きつい。

ダード・ハンター『和紙のすばらしさ』久米康生訳

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ICU図書館に10冊程度開架されている和紙関連の本を見てみると、ほとんどが久米康生という方の手によるものである。久米氏は1973年に毎日新聞社編『手漉和紙大鑑』の編集に関わって以来、和紙研究を続け、1989年に立ち上げられた 和紙文化研究会 の代表も務めたそうだ。本書は久米氏による訳書である。(彼はたぶん翻訳家ではないが。) ダード・ハンター(久米康生訳)(2009)『 和紙のすばらしさ―日本・韓国・中国の製紙行脚 』勉誠出版 Dard Hunter. (1936).  A Papermaking Pilgrimage to Japan, Korea and China . Pynson Printer 著者の ダード・ハンター (Dard Hunter 1886-1966)は紙史研究の大家らしい。新聞印刷の業者を父に持ち、オーストリアの印刷学校に留学したのち、ロンドンでも働くなどなどと筋金入りだ。アメリカに帰国した後には自分の工房を建て、自前の紙と活字で自ら著した本を出版する工芸家となった。その内容はヨーロッパ、アジア、アフリカの40か国以上の紙郷を渡り歩いて得た、膨大な資料に基づいている。 本書はハンターが東アジアでの紙作りをこの目で見るべく、1933年に日本、朝鮮、中国を現地調査したときの記録である。中でも日本の記述がダントツに多いのは、彼が日本の製紙の技術と品質を「驚嘆に値するすばらしい工芸」(本書2ページ)と絶賛し、尊敬するからである。訳者あとがきにその原文が紹介されている。 It is not an exaggeration to state that the present-day handmade papers of Japan are the technical marvel of the entire papermakers' craft.(128ページ) 対して、「現代中国の手漉き紙については、ほとんど感動するものはない」(63ページ)とまで酷評しているのには笑った。1933年だからこそ言えた文句である。 そう、1933年なのだ。太平洋戦争も始まらない時代、朝鮮半島が分裂する前の時代、日本は満州など海外進出に新進気鋭だった時代である。(ハンターが逮捕されず無事旅を終えられたのも、日本の紙メーカーと紙研究者

関啓子「言語障害」の授業と『失語症を解く』

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ICUの言語学の授業に「言語障害」というのがある。いくつかある言語障害のうち、失語症を中心に、その症状やリハビリ、患者への接し方などの理解を深めることが主眼である。 失語症はおろか言語障害も、知人や親族にそういう方がいない限りあまり一般に知られていない。私はたまたま、失語症に触れた本をいくつか読んだことがあって知っていた。 言語障害と言語学がどこでつながるのか。簡単に言えば、脳梗塞などで言語機能の一部または全部を失った患者の、脳の損傷部位と症状を照らし合わせることによって、脳のどの部分が言語のどの側面を(主に)司っているのかが分かるのである。言葉を生み出し受け取る人間(または脳)の活動を知る上で、失語症患者の貢献は大きい。言語学の中でも、多分に脳科学とかぶった領域である。 ICUのこの授業では、そうした言語学的なことはほとんど扱わず、障害としての失語症、つまりその症状や医療制度や医療倫理にスポットが当てられる。 さて、私がここで本題にしたいのは授業の内容ではなく、講師の関啓子さんである。 関さんは、言語聴覚士として長年多くの言語障害の患者と関わってきたのだが、2009年に、なんと自身も脳梗塞で倒れ、言語障害を持つ身となったのだ。全くの幸いにして、自らリハビリの専門知識があり、かつ周りの専門家の助けが功を奏したこともあり、10ヶ月という期間で職場復帰(神戸大学大学院保健学研究科教授)を果たした。(この回復の早さは異常なのだという。) もうお気付きかもしれないが、これは非常に重要な意義を持っている。関さんがICUで教えている、もちろんそのこともとても幸運なめぐり合わせであるが、何よりも強調すべきは、関さんが自分の専門の障害を経験したということだ。しかも、これは例えば、聴覚障害の専門家が耳が聞こえなくなったのとはわけが違う。非常に雑な言い方だが、失語症とは相手の言ったことが理解できなかったり、思ったことが話せなかったり、文字が書けなかったり、読めなかったりする障害である。つまり多くの場合、一旦失語症にかかると、患者は自分の思考を言語で表出することができない。自分の内状を外に表現できないのであるから、周囲の人はその人の思いを推測するほかない。(まさにこれが失語症に対する誤解につながる理由である。)しかも、重症度にもよるが、失語症は完治することがほとん

池上嘉彦『記号論への招待』ほか2冊

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最近2週間に読んだ本から3冊書き留めておく。 ヤコブ・ニールセン (2006)『 ヤコブ・ニールセンのAlertboxーそのデザイン、間違ってます 』RBB PRESS 池上嘉彦(1984)『 記号論への招待 』岩波書店 今学期「記号・思考・文化」という授業をとるにあたって、担当教員が入門書として「不朽の名著」と謳っていたので、読んでみた。 池上嘉彦 は、先学期偶然だが彼の有名な論文、DO-Language and BECOME-Language: Two Contrasting Types of Linguistic Representation(「する」言語と「なる」言語)も一部読んだことがある。 北康利(2008)『 匠の国 日本ー職人は国の宝、国の礎 』PHP研究所 ものづくり。日本の精神。伝えたい。

ICU祭で展示した書道作品

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だいぶ間が開いたが、 ICU祭 のために書いた書作品から、5つ選りすぐって紹介する。ご鞭撻の程、お願いいたします。 環 約180 x 47 cm 今年の 5月21日に観測された金環日食 にちなんで、その日に書いた。下に、細かい字だがその日の様子を記録した。 左:臨  爨宝子碑 (さんぽうしひ) 80 x 80 cm 右:「学問に王道無し」 80 x 80 cm 臨 伝藤原行成  関戸本古今和歌集  70 x 25 cm 1年間のかなの勉強の成果として書いた。今回最も力を入れた作品のひとつ。 冒頭部 臨  黄庭堅  松風閣詩巻 35 x 11? cm 今回最も力を入れた作品のもう一つ。 総じて表装が貧弱なのは、お金と時間の制限のためだ。ご容赦を!

追悼:西田龍雄『西夏文字 解読のプロセス』

西田龍雄 氏は、言語学者であり、 西夏文字 研究の泰斗である。去る9月26日、西田氏が83歳で亡くなった( YOMIURI ONLINEニュース )と知ったのは10月半ば。追悼として、没後1か月までに彼の著作を読もうとたくらんだが、本を机に置いたまま延び延びにしてしまい、やっと、おとといと昨日でできた時間を使って、なんとか没後2か月には間に合わせた。『西夏文字 解読のプロセス』。 西田龍雄(1980)『 西夏文字 解読のプロセス 』玉川大学出版部 西夏文字は、高校の世界史の資料集で一目見て好きになった。複雑な字形が格好よかったのである。文字の一覧と意味、読み方が知りたくて、字典のようなものはないかちょっと探してみたこともあるが、当時の私には全く見つけられなかった。だが大学に入って、西田氏が日本では有名な研究者だと知った。ICU図書館にも彼の著作はいくつかあって、本書は、もともと1967年に刊行されたものの再版だ。 追悼などと格好をつけたが、西田氏の本を読むはこれが初めてである。ただ私の好きな西夏文字の、日本はおろか世界的に有名な研究者とあって、敬意の念を込めたのである。本書の内容は、タイトル通り主に文字の解読のプロセスである。西田氏は西夏文字の音、意味、構造すべての解明において、非常に大きい貢献をしているのだが、その大まかな手順を一般にも分かるように解説している。 本書を読み解きながら、西田氏の本当に綿密で膨大で根気のいる作業には、畏敬の念を抱かずにはいられない。西夏文字の資料は、決して十分ではない。あの見た目難解な数千の未解読文字を、手に入る限りの資料を使って、謎解きのように発音を同定し、意味を特定し、構造を推定する。地道に地道に、大量のノートを取りながら解読を進めたのだろうと想像すると、本書に結晶した汗と労力が、ひしひしと伝わってくる。 西夏研究の金字塔である。

ジョン・マーハ『チョムスキー入門』

自主的に選んで読破した最初の英語の本? ともあれ、時間ができたので久しぶりに本を読み終えた。 John Maher and Judy Groves. (1997). Introducing Chomsky . Totem Books. ジョン・マーハ、ジュディ・グローヴス(芹沢京訳)(2004)『 チョムスキー入門 』明石出版 チョムスキー はいつか読もうと思っていた。言語学をいくらか知っているなら、ノーム・チョムスキーを知らない者はいない。書道における王羲之と言ったところか。彼は生成文法や普遍文法などを提唱し、人間は生来言語の能力を持っていると唱えた。チョムスキーの理論は現代の言語学の根幹をなしていると言ってよい。MITの名誉教授で、もう少しで84歳の誕生日を迎える。 さて初のチョムスキーとして、彼自身の手によらない著作から入るのはいささか邪道である。しかしICUの売店でこの本をめくっていたとき、チョムスキーとジョン・マーハのツーショットを見たときは、目を疑った。それは仰天した。合成かと思った。 ジョン・マーハ はICUの教授で、まだ授業は受けたことはないが、2度講義を受けたことがある。たったそれだけだが、彼の深遠な学識と優しい笑顔に、学問をする者の本質を見た気がした。彼とチョムスキーのツーショットにあまりにびっくりして著者を見ると、本書は彼が書いたものらしい。それにしても、ジョン・マーハがチョムスキーと会ったことがあるだって!? 1日25ページ読めば7日で終わると思っていたが、絵が多く、私でも4日で読んだ。

五島美術館で仮名を鑑賞

先週の日曜日の4日に、 ICU祭 のまっただ中、世田谷の 五島美術館 に行ってきた。先月にほぼ2年間の改修を終えてリニューアルオープンしたばかりのこの美術館は、書道では特に仮名の 古筆 を多く所蔵している。今回の展覧会には、「新装開館記念名品展 時代の美」と題して名品が一挙に公開されていた。これは行くしかないと思ったわけだ。 まだ仮名は1年しか勉強しておらず、展示品の中でも「高野切第一種・第二種」、「升色紙」、「関戸本古今集」、「寸松庵色紙」、「本阿弥切」くらいしか知らなかったが、いつも本で見ているものを生で見られるのだ。予想に反して全く混んでいなかったので、まじまじと見つめていた。 本で市販されているものは一般に作品本体のところしか載っていないが、本物は美しく軸装されている。知らなかった。風格が段違いであった。 ミュージアムショップで、仮名古筆の絵葉書も5枚も買った。 目に焼き付けてきた。千年前に、誰かが書いたのだ。

ICU祭―第2回書道部作品展が終わりました

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先週11月3、4日の土日のICU祭で、書道部の第2回作品展が無事終了した。準備から当日までの模様を、個人的な体験を軸に書こうと思う。 まず特筆しておくべきは、セクション(英語プログラムのクラス)の企画が無かったため、今年は書道一本で、前日と当日の忙しさが大分減った点だ。確かに今年もかなり動いたが、去年の上を下への大騒ぎと比べれば、随分楽だった。 私は今年は結構な数の作品を出したが、早いものは5月、あるいは9月頭の合宿で完成していたものが多く、そうでない作品も、2点はそれでも1週間前には書き終わり、本当に直前まで終わっていなかったのは刻字1点だけだった(この作品についてはまた後日)。つまり数の割には、制作には追われなかった。 問題はどちらかと言うと表装の方だろう。私の作品もそうだが、他のメンバーの作品が多かったり、時間の余裕が無かったりして、直前1週間はぶっ通し表装ウィークだった。毎日練習場所に行った。ただ私に関しては、凝った表装は諦めて思い切って簡素にしてしまったので、去年のように当日早朝から大学で作業ということはなかった。 さて、2日(金)午後の前日準備である。会場が3階か1階かでこうも違うのかと思い知った。去年は3階が会場で、重いパネルを運ぶだけで体力を消耗しきったのだが、今年は1階で、しかも備品の部屋に近かったので、とんでもなく楽だった。私は途中買い物に行ったりと、休む暇もなかったが、とりあえず順調に事は進み、夜8時には準備は大体になり、会場を後にした。メンバーの差し入れてくれた牛丼がうまかった。 帰宅すると、その最後まで残っていた刻字の色塗りを終わらせようと焦っていた。面相筆を使ってちまちまちまちま、延々と何時間も黒を塗る作業は、いつ気が狂ってもおかしくなかった。思ったより時間がかかり、明朝4時前まで粘った。 3時間後、起床。当日である。色塗りを鑑賞に耐えうる程度には仕上げ、ICUに行って足早に諸用を足し、また部屋に戻ってきてあたふたと準備をしていたら、両親が来た。早い…。まだ準備中だからそこで相手はしていられなかった。その後、結局いくつか中途半端なまま再び大学に。もう10時半だった。あとは会場で事務的作業をし、やっと解放されたと感じられたのは昼頃だった。シャワーを浴びる時間も無かった。 昼は、両親と中華料理を食べた。 2日目

ICU祭ウェブサイトの運営とデザイン

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久しぶりに風邪を引いた。ここ数日鼻水が出て、今日体がだるいことに気付いたので、風邪だと悟った。秋も盛りのこの季節にほぼ毛布1枚で寝ていたせいだろう。風邪で沸いた頭でこれを書いているので、文字通りうわ言である。 ICU祭(ICUの学園祭)のウェブサイトの運営とデザインがひどい。 とは去年から思っていたが、今年もほとんど改善が見られないことが寒心にたえず、熱に浮かされた勢いでここに物申してみる。 2011年公式サイト 2012年公式サイト まあ、この際デザインには目をつぶろう。私はウェブデザイナーではないし、大学生にあまりウェブデザインやウェブユーザビリティを要求するのも変な話だ。 ここでは内容のことにだけ触れる。まずとにかく、 2011年 、 2012年 ともに一番の問題として、更新頻度の低さ、内容の薄さは致命的だ。全くお話にならない。2011年の方では、「ICU祭とは?」という超重要リンクは1年経ってもComing Soonだし、外部の方々にとって最重要であるはずの企画の情報も、ステージ発表以外、文字通りゼロだ。他にも、実にいろいろなところが工事中(コンテンツができていない)だ。2012年も、開祭まであと1週間だというのに、例えば「本部企画」は、いまだ見事に見出しだけを載せている状態だ。なるほど、これらのサイトは、見出しだけ見て内容が分かってしまうような千里眼を持った、天分豊かな者にのみICU祭に来る資格が与えられる、知的スリリングに満ちた空間である。 コンテンツのないページに行って、「戻る」ボタンを押すまでの3秒間を返して欲しい。ニールセンが『 ウェブ・ユーザビリティ 』で書いているように、工事中のページははっきり言って無駄である。ユーザーの時間の無駄にするだけだからだ。いやそれ以前に、ICU祭を楽しみにしてサイトを訪れた高校生、地域の人、卒業生、在学生、その他様々な方々が、情報が全く得られなくて抱いたであろう全がっかりを、どう受け止めるのだろうか。 もうひとつ大きな問題は、サイトの端々に独りよがりが出ている点だ。公の場であるはずのサイトで、「こみってぃ」(2011年トップページ)という、ICU内だけでしか通じない言葉を使うべきではない(コミッティとはICU祭実行委員会のこと)。ここはFacebookのグループではないの

語学好きと言語学者の卵へ:AERA MOOK『外国語学がわかる。』

大学でタイ語講習会が開かれると知るや、実用性などというものに考えも及ばずに 参加してしまったり 、なんとなく教養が深まるかなと、詩にも聖書学にも興味もないのにラテン語を数日かじり、授業もとろうとまでした(が難しくて諦めた)私のような、物好きや、もしくは言語学を学ぼうとしている人にはぜひおすすめな、『外国語学がわかる。』。この本、めっちゃ面白い! 朝日新聞社アエラ編集部(1996)『外国語学がわかる。 (アエラムック―やわらかアカデミズム「学問がわかる。」シリーズ (14))』朝日新聞社 巻頭言は故千野栄一氏と、いきなりビッグ登場できっぷがよい。ムックのくせに、これだけで気合の入り具合が感じられる。 「25言語の25人」という特集では、(編集者が恣意的に選んだ)有名どころの言語25が、各言語の第一線の研究者によって、見開き2ページで解説されている。他にも「少数言語の世界へ」と題して、もう十数言語ある。数十の言語の専門家がここに一同に介しているなんて! こんな本、さがしてもなかなか無いと思う。これはムック(Magazine+bOOK)だから、とにかくスイスイ読めるし情報量も多くて楽しい。ちなみに「大学外国語教育のゆくえ」という特集では、英語教育の特色のある大学の一つとして、ICUも紹介されていた。発行が1996年と古いので、今と全く違うし、ほとんど参考にはならないけれど。 本書は専門的なことは扱わない。言語学の入門書はごまんとあるから難しいことはそれに譲るとして、語学、少数言語の研究、外国語としての日本語などに興味があるけど、難しいことはわからない、となれば、このムックはすこぶる有益だ。 一応、アクティブ・リーディングとして、批判的な物言いをすると、「キーワード55」として挙げられているものが、言語学でも言語史とか言語哲学とか抽象論に寄っている印象を受けた。「エルゴンとエネルゲイア」? 「意味の三角形」? 何それ。選んだ言語学者は本書の対象を意識しているのだろうか。そんな言葉知らなくても、少なくとも私はピンピン言語学を勉強できているし、分からないからといって絶望する必要も全くない。一方、「普遍文法」や「パラメータ」が無いのは驚きだった。私だったら「手話」とか「外来語」とか「音節」とかも入れたい。 それに「ブックガイド50」のなかに『言語学大辞典』

佐藤進一『花押を読む』

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佐藤進一(1988)『花押を読む』平凡社 「花押(かおう)は自署の代わりに用いられる記号もしくは符号であって、その起源は自署の草書体にある。草書体の自署を草名とよび、草名の筆順、形状がとうてい普通の文字とは見なしえない特殊性を帯びたものを花押という」(本書10ページ)。 漢字で書かれた古文書の中に紛れ込んだ、解読不能の奇妙な黒いぐるぐるした記号( 花押 (リンク先Wikipedia))をこれまで何度か見て、その浮いた存在に、毎度不思議な感覚を覚えていた。 興味があるほどではないが、花押はサインの一種であることくらいしか知らなかったので、本を読んでみることにした。花押のような分野にも、しっかり本はあった。 本書は、花押の大雑把な歴史もひもとくが、大部分は花押の列挙と解読である。花押はほぼすべて書いた本人の名前の一部らしいが、解読は専門家にも難しいようで、著者の説明は苦しい所も多い。なので私は眉に唾をつけて読むことにした。だから本書の解説は大して信じていないが、もちろん読む前よりは随分勉強になった。今後の研究の発展に期待したい……にしても、これ以上の伸びしろはあまり多くない分野か……?

刻字作品「ノールゴード(Nordgård)」

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本作は、5月に彫って欲しいというお話を受けて、6月半ばに作り始め、7月半ばに完成したのだが、本人にお渡ししたのは先週のことだ。 彫った文字は「ノールゴード(Nordgård)」で、ノルウェーの名字らしい。それと桜の花も添えた。ノルウェー人のお知り合いへのプレゼントにして下さるのだそうだ。 正直、刻字経験の浅い私には、本作はハードルが高かった。片仮名は書道では全く書かないし、横書きをすることも滅多に無いし、まして絵は書道の範疇ではない。 まだ刻字は初心者で勉強中なので、習作として見ていただければ幸いだ。 書いたものを貼る。本当は敷き写ししたものを貼らなければいけないのだが。 彫りがだいたい完了したところ。 やすりがけをし、紙を洗い流したところ。 色とニスを塗って完成。

長野は秋に満ち満ちていた

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以下3枚は、トリミング(と署名入れ)以外の編集を一切していない。 この土曜日、用があって地元長野に帰省した。夕方、犬の散歩をしていたところ、道路脇に生えていた柿が透き通るような赤に熟していた。 東京と比べ肌寒い。ここは秋に満ち満ちていた。

河野六郎『文字論』

文字が無かったら飛行機飛ばなかったと思います。 ー今学期の英語史の授業にて、守屋先生 数年前からいつか読もうと思っていた河野六郎『文字論』を読んだ。 河野六郎(1994)『文字論』三省堂 (今は一時期より薄れたものの)文字に強い関心を持っているのだが、この分野の本は図表がほとんどで、学術書はかなり少ない。Amazon.co.jpに関する限り、本書は文字学と検索して一番最初に出てくる本だ。著者の河野氏は、三省堂の『言語学大辞典』の別巻『世界文字辞典』の編著者でもあり、言語学の大家らしい。(今調べたら、編著者はこのほか千野栄一、西田龍雄と、日本の20世紀の言語学の泰斗が名を連ねていて驚いた。しかも西田さんはつい先日9月26日に亡くなっていて二度驚いた。) もっとも、このブログにも 一度書いたことがある が、文字が学問として、特に私の興味のある言語学の文脈において文字が語られないのには、わけがある。 理由は大きく2つある。一つは、文字は人間の生来の能力ではないということ。外から与えられたものだということだ。事実、 聾など特殊な障害のさらに特殊なケース でない限り、言葉を話さない人間はいないのに対し、健康でも文盲の人、さらには文字を持たない言語も多く存在する。ここは河野氏も認めている。(「音声言語は人間の自然であり、文字言語は文化の所産である」(本書8ページ)。) 二つ目は、文字は言語の音声を正確に反映しないということだ。例えば、英語のghに幾通りもの発音があることが挙げられる。このように文字は融通が利かないので、少なくとも言語学において研究の対象とはならない。 それを承知の上でも、私は文字は面白いと思うし、河野氏も文字論の発展を期待して本書を著したのである。 さて、いきなりだが、私が本書で少しがっかりしたのは、『文字論』と題しておきながら、内容が漢字にかなり偏っていることだ。名は文字論でも、実は「漢字プラスアルファ論」である。もっとも、読み終わった今、文字(漢字)学の碩学の著作を読んで損はないと思ったし、いずれ読むべきであったと思う。 最後にアクティブリーディングとして、批判的なことを書かせてもらえば、河野氏が熱く語る「文字の本質=表語」という説は、私にはトートロジー(同語反復)にしか見えない。

本田孝一による「アラビア書道の宇宙」

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私は日本、中国の書道に留まらず、文字を美しく書くこと一般に興味があるので、西洋のカリグラフィーやアラビア書道も学んでみたいと思っている。 というわけで、先日、ICUの近所の東京外国語大学の図書館へ赴き、本田孝一氏によるアラビア書道作品集を借りてきた。英語とアラビア語ばかりの中、外大OPACの検索で唯一ヒットした日本語の本だ。そもそも日本でのアラビア書道関連書籍は非常に少ないに違いない。 本田氏 は日本のアラビア書道の第一人者であり、「アラビア書道」の名付け親でもある(本書3ページ)。 本田孝一(2006)『アラビア書道の宇宙―本田孝一作品集』白水社 さて、うむ…、美しい。文句なしに美しい。流れるような線、書道とは違う完璧な均整美、伝統、精神…。 私は東洋の書道を知っているから、なおさら思うところが出てくる。アラビア書道をもっとやってみたくなった。

第2回ICU書道部合宿が静岡で行われました

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昨日5日からICUでは新学期が始まったが、おとといまでの3日間、第2回のICU書道部合宿があった。基本的な日程と場所は去年と同じで、静岡県伊東の貸別荘で2泊3日だ。 去年と一番違った(と個人的に思う)のは、食事の質が大幅に上がったことと(書道と関係なし…)、ICU外(武蔵野美術大学)から参加してくれた人がいたことだ。(彼女は書道はしないが、この合宿で筆と紙で様々な抽象、具象画を描いて、部に新たな風を吹き込んだ。料理があれほど豪盛になったのも、 彼女のおかげと言っても過言ではない。) この書道部合宿は、飲めや遊べやのいわゆる大学生の有名無実合宿ではない。少し大げさに言うと、寝て食べる以外はひたすら書くガチな部類の合宿だ。もちろん、飲む人は飲むし、ビンゴ大会はしたし、がっつりうたた寝する人もいたが。 参加者は去年から2人減って7人(うち去年も参加したのは3人のみ)だったが、全員が書いた量は去年より多かった気がする。部屋に張り巡らされたひもに、大量の作品が吊るされていた。 書くのは基本的に11月初めのICU祭に展示する作品で、この合宿で集中的に書いてしまおうという魂胆だ。20畳のリビングは、ブルーシートが敷かれ、書道用具や紙やゴミが所狭しと散らかった別世界へと化す。早朝から翌未明まで、1日の大部分をその一室で過ごす上に、今年は食事が多かったから、太ったかもれない。 2日目の夜ごはんどきの写真。佳境だった。 ここにあまり細々とは書かないが、この合宿の濃密さが分かったくだされば幸いだ。夏休みの文字通り最後に、大いに楽しんだ。

パロ・アルト研究所の歴史:「未来をつくった人々」

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Michael Hiltzik. Dealers of Lightning . 1999. マイケル ヒルツィック(鴨澤眞夫訳、エ・ビスコム・テック・ラボ監訳)(2001)『未来をつくった人々―ゼロックス・パロアルト研究所とコンピュータエイジの黎明』毎日コミュニケーションズ ゼロックスのパロ・アルト研究所(PARC)の名前を聞いたことがある方は少なくないだろう。 マウスをクリックしてポップアップメニューを表示できるのも、ウィンドウを重ねて表示できるのも、ワープロソフトで自在にテキストを編集できるのも、PARCのおかげだ。それどころか、スクリーンのあり方や、パーソナル・コンピュータの概念すら、PARCがなければ、今のコンピュータは全く違っていた。PARCのこれらの成果をゼロックスではなく、Appleなどが開花させたというのも有名な話である。 本書はその創設からの十数年、70年代から80年代前半の歴史である。 本文だけで500ページを超え、手強そうだったが、なかなか興奮させられた。

チベット初の盲学校を建てる!:「わが道はチベットに通ず」

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ICUの私の先輩に石田由香理さんという方がいる。今年4月から1年間大学を休学し、フィリピンでボランティアをした後、今はフィリピン大学の聴講生として視覚障害者に関する様々な活動をしている。フィリピンでは、視覚障害者はよっぽどお金がない限りまともな教育が受けられず、差別も根強い。こうした不平等になんとか突破口を開くべく、石田さんは現地の障害者団体の会議に出席したり、現地や日本の厚いバックアップに後押しされて点字やブラインドテニスの普及を計画したりと、まさに「1留学生が国を動かすことも可能なんじゃないか?」( 6月22日の記事 より)という勢いなのである。(石田さんのブログ: 「フィリピン留学記」 ) しかし、今でこそ事は(石田さんの手に負えなくなる勢いで)進んでいるが、この数か月は歓びばかりではなかった。 口ばかりでちっとも約束を守らない気質がちなフィリピン人に、石田さんは様々な場面で業を煮やしたり、電機屋では、マウスの機能をオフにしているだけだといくら説明しても、マウスが故障しているからこのコンピュータには対応できないと店員に突っぱねられたり(自らも全盲の石田さんはマウスを使う必要がない)、せっかくの日本人友達との旅行では、ホテルの従業員らにまんまと騙されたりと、歯を食いしばるような思いもしている。 先日読んだ「心の視力」で触れられていた、このドイツ人女性による記録が、石田さんの活動と多かれ少なかれ重なったのは、私がフィリピンでの不平等と彼女の体験を日頃読んでいたからなのだ。 Sabriye Tenberken. (2000).  Mein Weg führt nach Tibet. Die blinden Kinder von Lhasa . Sabriye Tenberken.  My Path Leads to Tibet . サブリエ テンバーケン(平井吉夫訳)(2001)『わが道はチベットに通ず―盲目のドイツ人女子学生とラサの子供たち』 風雲舎 当時26歳の学生だったその女性、サブリエ・テンバーケンは、チベット語の点字を開発し、チベット初の盲学校を設立しようと決心する。 チベットでは盲人はたいてい人間以下の扱いを受け、知能も劣っていると信じられてきた。しかし彼女は1996年のスタートから数年かけ、この状況を変えた。 ここま

オリヴァー・サックス著「心の視力」

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Oliver Sacks. The Mind's Eye . 2010. オリヴァー・サックス(大田直子訳)(2011)『心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界』早川書房 またまたオリヴァー・サックス。 本書のテーマは、「見る」ことだ。楽譜や文字が読めなくなり、音楽を聴いて覚えるようになった女性、顔が見分けられなくなった人、失明しながらも様々な適応を見せる人々など、人間味に満ち満ちた7つのエッセイ。 サックス博士の本は読むたびに多くの発見がある。

瑪瑙やジャスパーを中心とした図録:「不思議で美しい石の図鑑」

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美しい。美しい。理屈抜きに美しい。 躍動、極彩色、巧緻、驚異を湛えた小宇宙。 山田英春(2012)『不思議で美しい石の図鑑』創元社 石の内部に渦巻く神秘の世界。億、万という時をかけて、変質、蓄積、破壊、固化などを経、目を見張るような縞模様、直線、曲線、螺鈿のような模様、CGと見まがう世界、風景画のような文様を作りだす。見ていると、石だという感覚が無くなる。絵画か生体組織か星雲を見ている気にもなってくる。「自然が造り出した究極の工芸品」(10ページ)とは言い得て妙だ。 言葉にするのも野暮である。百聞は一見に如かず。 コレクターである著者( http://www.lithos-graphics.com/ )はなんとICU卒。私の先輩である。

安野光雅のコンピュータ絵本「わが友 石頭計算機」

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なんとこの年になって絵本である。しかしコンピュータの絵本だ。たぶん子供対象の絵本とは考えていないだろう。 安野光雅著、犬伏茂之監修(1973)『わが友石頭計算機』ダイヤモンド社 先日 の「コンピュータの名著・古典100冊」に紹介されていた本で、「本書は出版から30年経った今でも、コンピュータの原理を視覚的に説明する唯一の本である」(129ページ)と、大絶賛であった。本書が扱うのは2進法、四則演算、プログラミングなどと、思ったほど目新しいことはなかった。「100冊」を読んで私が期待しすぎたか。 しかし、本書が名著である理由は、その内容だけでなはい。文と絵も第一級であった。 絵本作家 安野光雅 による文は、コンピュータを扱う内容にもかかわらず、読むものをおとぎ話の世界に引き込むようで、ちゃっかりユーモアも入れてくるところも抜け目ない。 そして絵も、並の挿絵とは一線も二線も画していた。西洋風の絵は細やかで装飾的で美しく、中世ヨーロッパの文献を読んでいる気分になった。出てくる人物もすべて数世紀前の西洋の庶民、王様、聖職者などだったので、挿絵は原著のものだとずっと思っていたのだが、これも安野氏の手によるものとあるではないか。 本書は、ストーン・ブレイン氏(すごい名前…)による My good friend -- THE STONE BRAIN COMPUTER の翻訳という形をとっているが、安野氏個人の昔話なども入っており、どこまでが原著の内容で、どこからが安野氏の創作なのかが分からない。それに、ブレイン氏による「序」の日付が1691年だったり(誤植ではないと思われる)、一部ページが破れていたためにほぼ2ページにわたり翻訳なし、などと、いろいろ不可解なところが多い。 しかしそのおかげで、大昔のヨーロッパの本を読んだようなと言ったらいいのか、不思議な気持ちになりながら読むことができた。贅沢な53ページであった。 追記:以上を書きながらブレイン氏の原著を探したら、どういうわけか見つからない。翻訳というのもフィクションだったのか。これは一本とられた。Stone Brainなんて変な名前だと思った。

デザイナー廣村正彰の科学する文字、「字本」

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デザインに惹かれた。 廣村正彰(2009)『字本―A Book of Letters and Characters』ADP 本書は文字の本である。ただし難しいことは一切書かれていないし、文字数もかなり少ない。文字とは何か? 文字と脳、眼、手、耳との関係は? 文字の美とは? 本書は、文字のいかなるものか、いかにして認知されるかを、自然科学の知見に基づいて、しかし科学の堅苦しさを感じさせないような平易な言葉を使って書かれた本である。 本書は、白を基調にしたシンプルでクールなデザインで、見開きにテーマひとつと、テーマに沿った美しいビジュアル1枚という思わず目を引くデザインだ。それもそのはず、著者は心理学者でも文字学者でも言語学者でもなく、デザイナーなのだ。文字を学問としてではなく、タイポグラフィーの対象として見てきた人物である。著者廣村氏の文字に対する探究心が、本書へと結晶したのだ。 そう、だから廣村氏は、本書を書くにあたって必要な諸学問には、おそらく明るくなかったはずだ。だが、彼はその道の門外漢の地位に甘んじて、なまじっかな内容に終わらせるようなことはしなかった。感服すべきは、参考文献の多さである。なんと、たった1ページ、数百文字のために、平均十数個、最多で80程度もの参考文献があるのである。それも、私でも知っているような、錚々たる面々である。下手な科学書よりよっぽど多い。廣村氏の本書に対する執念を見た。 本書の最後の、古今東西あらゆる文字を網羅した系統樹も美しかった。 と、ここまでべた褒めだが、必ずしも楽しく読めたわけではない。専門用語が全く使われていないため、あまり厳密な記述だったわけではないし、言語学などに明るくない人には誤解さえ与えてしまう恐れもある。これが言語学のすべてではないと、ここにコメントしておきたい。そもそも、いわゆる言語学は文字を扱う学問ではない。その理由は少々長くなるので、 過去の記事 に譲る。 本書は、日本語と英語の対訳に近い形をとっているのだが、英語がいかにも日本人が書いた感じがして、いくぶん残念だった。ほぼすべて読み飛ばせて頂いたが、すでに1か所、関係代名詞の誤用を見つけてしまった。奥付を見ると、翻訳は著者とは別の方だが、ネイティブのチェックがあったかどうか疑わしい。

SeesaaブログなどからBloggerへ引っ越しするには

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今年(2012年)3月にこのブログはSeesaaブログからBloggerに乗り換えたのだが、騎馬が馬から馬へ乗り移る如くの「乗り換え」であり、これまでブログはSeesaaとBlogger、2つ存在していた。家のものをすべて引っさげて他の家へ運ぶ如くの「引っ越し」は、この2つのサービスの間ではできなかったのである。というのも、SeesaaはMovableType(MT)という形式、Bloggerはxmlという形式でインポート、エクスポートをするのだそうで、互換性が無いのだ。それを承知での乗り換えであったが、やはり1つに統合されないのは気持ち悪かった。デザインが今ひとつのSeesaaとは早くおさらばしたかった。 というわけでここ数日、久しぶりに「とにかくググりまくる戦法」を使い、やり方を調べ、今日、Seesaaのほぼ5年分、全181記事を、何とかBloggerにインポートし終えた。これまで諦めていたものが意外にもできて、今とてもハッピーだ。 これから数日かけてそれらに多少の書式変更を加え、公開していく。一気に記事が増えるが、一切無視してもらって構わない。Seesaaの方は最終的に削除しようと思う。 以上、個人的な話。以下は、SeesaaなどからBlogger引っ越したいという方のために、私がしたやり方を書いておく。 まず、SeesaaとBloggerでは、MTとxmlの違いの他に、(投稿の)時刻の表し方も違う。前者では24時間表示で、後者は(グリニッジ標準時での)12時間表示なのだ。このあたりは、このページにたどり着いた方ならもうご存知かもしれない。よって、SeesaaからBloggerへの引っ越しには、次の2回の変換が必要である。 調べると、どこのサイトにも(1)の変換に「Slmame MT形式にちゃんとこんばーと」なるものを使えとあったが、2011年のどこかを境に、そのサイトが閉鎖されている。そこで苦肉の策で自分でスクリプトを書いたり、 MicrosoftWordの置換機能を使ったりした人 もいたが、私もここでどうにもこうにもいかなくなった。 だが、とうとう見つけた! 幸いにも、「クリボウのプログラミングひとりごと」というブログで、変換プログラムを作ってくださっていた。こちら( Blogger ブログ移行用、Mova

記憶、サヴァン、神経心理学研究の金字塔:「偉大な記憶力の物語」

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大変長らく積ん読本であった。3分の1弱を3月にタイへ行く飛行機の中で読んだが、残りをこの10日くらいで読んだ。(遅すぎ…。)ルリヤの「偉大な記憶力の物語」である。 記憶、サヴァン、神経心理学などを語る上で、本書は金字塔だ。(ただ、本書にサヴァンという言葉は使われていない。)なぜならば、著者ルリヤは神経心理学の祖。そして本書の主人公は並外れた記憶力の持ち主、忘却を知らない男なのであるから。 A. R. Luria. The Mind of a Mnemonist: A Little Book about a Vast Memory . 1968. A・R・ルリヤ(天野清訳)(2010)『偉大な記憶力の物語――ある記憶術者の精神生活』岩波書店 ルリヤにより約30年にわたる研究が行われたその男、シィー(本名、 ソロモン・シェレシェフスキー )は、その強烈な共感覚を使って、生まれてから見たもの聞いたものの一切、文字通りありとあらゆるもの、すべてを記憶した。そして、それを決して忘れることはなかった。(正確には、強く意識しなければ忘れられかった。)彼の内なる世界は、彼の知力、意志、人格をして、私たちのそれとは根本的に異ならしめていた。 本書は科学論文とは少し趣を異にし、シィーの記憶力と記憶の過程の記録に留まらず、彼の人となりの記述も試みられているのである。このスタイルは、オリバー・サックスを彷彿させる。事実、サックスの著作には何回もルリヤの名前が出てきており。影響を受けていることが伺える。 ロシア語原著は1968年刊行。文体も、論文とは程遠く、何とも修辞的である。格調高い文学作品を読むようでもある。 邦訳は、1983年に文一総合出版から刊行されたが、私が本書を知った当時、絶版、品切れ、図書館にも無し。しかし、2010年、改訳と訳注の追加を経て、この岩波現代文庫として復刊し、今こうして読むことができる。

「コンピュータの名著・古典100冊」

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石田晴久、青山幹雄、安達淳、塩田紳二、山田伸一郎(2003)『コンピュータの名著・古典100冊』インプレス 内容は読んで字の如くだ。若きエンジニア、プログラマやその卵が対象だ。私がエンジニアになりたいわけではないが、コンピュータやインターネットの歴史などに興味があったので読んでみた。やっぱり読むなら名著がいいから。 アルゴリズムって何? 言語って? UNIX? そんなレベルの超初心者だが、100冊中11冊に付箋を貼った。それらをゆっくり読んでいく予定だ。

刻字作品「へのへのもへじ」

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English 書道には、木などに筆文字を彫る、刻字という分野があります。高3のときに一度やって面白かったので、またやろうと思っていました。5月にFacebookで、修行のため作らせてくださいと知人に募ったところ、数名「作って欲しい」という方がいたので、目下制作中です。 以下の作品はその「修行作品」ではなく、昨年冬から書道部で活動し、今日帰ってしまう、アメリカからの留学生のためのプレゼントとして作ったものです。 ある日の書道部で、「へのへのもへじ」とか「つるニハののムし」(一般には「つるニハ○○ムし」と呼ばれているようで)とかが 一瞬 話題になったのをきっかけに、彼女のアメリカへのおみやげに「へのへのもへじ」を彫ろうと決めました。理由は2つ。へのへのもへじという日本の古いサブカルチャーを留学生の彼女に知って欲しかったのと、彼女の友達が日本語がわからなくても、これが顔だとは認識でき(るはずで)、言語と文化を超えて誰にでも楽しんでもらえると思ったからです。(一応「へのへのもへじ」の歴史も調べてみました。インターネットにはまったくありませんでしたが、絵本作家の加古里子さんの著書「 伝承遊び考〈1〉絵かき遊び考 」に膨大な資料と歴史的考察がありました。) 6月中旬、まず、書きます。大きく仮名を書くのには慣れていないし、へのへのもへじとしてバランスを取るのも難しかったです。こんなにたくさん書きました。これほどへのへのもへじに向きあった人はかつてどれだけいたでしょうか。 ネットで調べたら、女性(へめへめしこし)や久米宏もいました。 そして、これぞという作品をでんぷん糊で板(18*17cm)に貼ります。 7月中旬、彫ります。指は痛くなるし、うまく彫れないし、一番しんどい。 なんとか彫れたら、紙を洗い流します。彫った面をヤスリで整えます。ちまちまちまちま、面倒くさい作業。  黒と赤のアクリルガッシュと、金のポスターカラーを塗ります。右下の印は私のイニシャル、「こ」です。そしてニスを2回塗って、裏面に落款を入れ、完成!  以上、ざっとこんな流れです。本当は、絵具や筆を買いに行くなど、こんなスムーズじゃなかったんですけど。 ともあれ、昨日(7月23日)の彼女のキックアウトで、プレゼント

'Henohenomoheji': Japanese Doodle in Calligraphic Engraving

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In Japanese calligraphy (and of course in other asian one), paper isn't the only medium on which characters are written; you can inscribe characters on stone and wood pieces as well. This branch of calligraphy is called kokuji (刻字; literally "engraving character"). And I  recently made  a kokuji  piece of a Japanese traditional half-in-fun doodle  'henohenomoheji.' Henohenomoheji is a n emoticon composed of seven hiragana Japanese phonograms, which are he (へ), no (の), he (へ), no (の), mo  (も), he (へ), and ji (じ). Check the Wikipedia entry ' Henohenomoheji ' for more details (I'm slothful, sorry). But let me add some more info. First of all,  it is so subcultural that, although it's known by every Japanese person, it's been little introduced overseas. Secondly,  this doodle is very traditional. As you may imagine, it's not academic enough to study, and the history is unclear. But according to Satoshi Kako (1926-), a famous picture b

初心者もデザインしたい:「ノンデザイナーズ・デザインブック」

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こういうデザインの本を探していた。 Robin Williams. The non-designer's design book . 1994. ロビン・ウィリアムズ(吉川典秀訳)(1998)『ノンデザイナーズ・デザインブック』毎日コミュニケーションズ 本書は、「デザインを正式には学んだことがないけれど、ページをデザインする必要がある人々のため」(本書p.11)の本だ。つまり、お知らせや、パンフレットや、レポートや、名刺や、プレゼンテーションや、種々の表紙などなど、ページの形をしたメディアのデザインを任されてしまったデザインの初心者のために書かれた。先日読んだ「プレゼンテーションzen」で取り上げられていたので、読んでみたのだ。 本書を読めば、情報デザインとタイポグラフィーの基礎の基礎を学べる。デザインなどわきまえていると思っていても、一読してみれば多くを学べるはずだ。

岩崎氏の感覚世界に惹かれはするものの:「音に色が見える世界」

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彼はあまりに特殊すぎた。 岩崎純一(2009)『音に色が見える世界』PHP研究所 (5か月ぶりに日本人の著者) まず著者の紹介をしよう。彼以上に多様な共感覚を持っている人を、日本では、私はおろか彼自身も知らない。本書の裏表紙の著者紹介から乱暴にも引用させていただくと、「文字の形状に色が見える、音や色に景色が見える、女性の排卵などの各生理現象を、その女性に見聞きする色と音で知る、匂いや味に色や形がある、目視のみで対象者や物体に触れるミラータッチ共感覚を持つ、など、現在の欧米や日本で実在が確認または仮定されている共感覚をほぼすべて保持している。」仰天である。 共感覚に馴染みがない方には、このきわめて文学的ともいえる感覚が信じがたいと思うが、これは比喩やフィクションではなく、岩崎氏には、私たちが物に色を感じ取るのと同じレベルで、文字に色なりが見えるのだ。私は共感覚者ではないが、共感覚は実在すると思っているし、彼の言うこともとりあえず信じている。とにかく、とんでもない共感覚者なのだ。 だが、本書の彼の意見には、違和感を覚えずにはいられない。まず、本書の趣旨が「日本人男性の共感覚感」だというのが、私の引っかかった本書の独自な点だ。そして、彼のナショナリズムというか、(特に江戸以前の)日本語・日本文化志向と、英語をはじめとするヨーロッパ言語・欧米文化・欧米化卑下ともとれそうな思想には、納得できない点が多い。例えば彼によれば、日本の「欧米化」のせいで、人間本来の共感覚的感覚が失われてしまったと言うのだ。そこまで言われると、共感覚を「失った」私らが悪いみたいじゃないか。確かに彼の視点は面白いし、必ずしも唾棄すべきとは思わない。だが、彼の説は、分野の特殊さもあってか、根拠に乏しい。 ただ、読んでみて思い至ったのは、岩崎氏の感覚はあまりに特殊であり、彼ほど強烈な共感覚を持つ人は少なくとも日本では彼一人だけだ。よって、その感覚を共有することは誰にも不可能なのだから、彼の考えに共感できないのはもっともである。本人は大真面目なのはわかるが、果たして読者の共感をどれほど得られるだろうか。 新書という限られた紙面の制約もあってのことだと思うが、僭越を重々承知で言うと、文章もとりわけうまくないし、いろいろな点が言い尽くされていない。この際、新書じゃなくて、この2、3倍

スライドデザインは抑制、シンプル、自然さ:「プレゼンテーションzen」

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退屈なプレゼンテーションはもうやめよう。本書をすべてのプレゼンター(ビジネスマン、大学教員、そして学生、など)へお送りする。 Garr Reynolds. Presentation Zen . 2008. ガー・レイノルズ(熊谷小百合訳)(2009)『プレゼンテーションzen』ピアソン桐原 これはPowerPointなどのメディアを使ったプレゼンテーションのデザインの本である。特に問題とするのは、スライドデザインだ。そう。文字を詰め込んだスライドは諸悪の根源である。細かい文字は読みにくいし、ノートを取る時間もないし、話し手のスピーチにも集中できない。プレゼンテーションの主役は、スライドではなく話し手なのに。こんな経験は、大学の講義で何回もあった。(ただしすべてが悪いわけではない。事実、ELA(大学の英語プログラム)の先生たちにこのプレゼンテーションZenの影響がかなり見られ、もともとそれが私が本書を読むきっかけでもあった。) 本書は、このゆゆしき問題を禅のアプローチで解決する。つまり、デザインにおける「抑制」、「シンプル」、「自然さ」だ(本書p.247)。スライドは、 あくまで 話し手の視覚的サポートに留まるべきなのだ。文字や不適切な画像を使うすべてのプレゼンターに、ぜひ本書を取っていただきたい。 ちなみに、私もICUのELPの授業で2、3度PowerPointを使ったプレゼンをしたことがあるが、1回、先生のすすめで PechaKucha (ペチャクチャ)というフォーマットのプレゼンをしたことがある。知らなかったが、それも本書で紹介されていた。PechaKuchaでは、使っていいスライドは20枚だけ、しかも1枚はきっかり20秒。タイマーで容赦なくスライドは切り替わる。20X20=6分40秒の、短く歯切れのいいプレゼンだ。なかなか刺激的な時間だった。 本書は、著者のブログ「 Presentation Zen 」をもとにしている。彼曰く、「プレゼンテーション・デザインに関するものとしては、最もアクセス数の多いサイト」(本書p.16)だという。 今後プレゼンをするとしたら、このプレゼンテーションZenのアプローチを使うと決めた。本書は、プレゼンテーションデザインの本だが、デザイン一般の本としても一読の価値がある。いや、二読、三読の価値もあ

テンプル・グランディン自伝「我、自閉症に生まれて」

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ただいま長野県に帰省中。 結構有名な本だと思ったのに、地元の図書館にしかなかった。自閉症でありながら、それを克服し、現在動物科学の研究者であると同時に家畜プラント設計会社の社長でも ある、テンプル・グランディンの自伝だ。自閉症患者自身による、数少ない自伝。 Temple Grandin & Margaret M. Scariano. Emergence: Labeled Autistic . 1986. テンプル・グランディン、マーガレット・M・スカリアーノ(カニングハム久子訳)(1994)『我、自閉症に生まれて』学研 自閉症患者が大学を卒業し、まして実業家になるなど普通は考えられない。確かにグランディンは、子供の頃は手の付けられない問題児だった。しかし彼女は、教師や親の愛、そして「ある装置」のおかげで、自閉症を抑制、または利用して、成功を収めることができた。本書は多くの自閉症患者に希望を与えるだろう。 彼女は、2010年、 TEDでの講演 も果たしている。 (内容には関係ないし、私が言う立場にもないと思うが、訳が下手くそだった。今までで2番目くらいに悪かった。 最高級の翻訳 の直後で、これだ。 例えば無生物主語や関係代名詞、もっと上手に訳せるでしょうに。)