2016年12月14日水曜日

「趣味は書道です、でも見るだけで字は書きません」 「えっ?」

「鑑賞」と名のつく趣味は、映画鑑賞、音楽鑑賞、美術鑑賞あたりだろう。Googleで「趣味 鑑賞」と検索してみて、最初の1ページに出てくるのは、その3つだけだった。

「書の鑑賞」という趣味は聞いたことが無い。

単純に書道をする人口が少ないからだろう。半分正解。いやほぼ正解である。

だが、単に書道人口の少なさだけが理由ではないと思う。「書の鑑賞」が一般でない背景には、人々の意識の問題もあると思う。

西安・書院門街にて 野外での新古書売り

実は書道のコミュニティを見回してみても、鑑賞にそれなりの時間とお金を割いている人はほとんどいない。私の知人の範囲では、全然いない・・・と思う。かくいう私も趣味というほどには徹底していない。学生の頃こそ、一時期は書に関する図録・解説書・資料に毎月数万円を使っていたけれども、今はゼロ円~数千円だ。

ざっくり言って、書を単なる「字を上手に書くための訓練」と思っている人は、書の経験の有無に関わらず、たいへん多い印象を受ける。もしも書くだけでいいなら、多少の初期投資(硯、手本等)をすれば、後は紙、墨、筆といった限られた消耗材にお金をかけるだけでいい。(人によっては月謝、も。)けれどもそれはとても薄っぺらい、もったいない学びだと思う。

多くの人にとっては、小中学校の「書写」の授業が数少ない書道体験だろう。そこでは、現代生活に即した実用的な部分ばかりが強調され、芸術的、歴史的な部分に関しての座学はない。それがあってか、書道とは実践、すなわち「書くこと」だと広く思われている。

しかしながら、書における鑑賞の重要性は強調してもしきれない。なぜならば、(音楽等にも全く同じことが言えるのだが)優れた作品に触れることが自分の創作を刺激し、あるいは純粋に、自身の精神生活を豊かにするからである。

書の腕を鍛えたいならば、書くことに匹敵するくらい「見る」ことにお金と時間をつぎ込むべきだと思う。書くのは好きじゃないけど感動に飢えているのなら、もっぱら「見る」ことに投資したっていい(今のところ私がそうだ)。音楽や芸術と同じく、感情を震えさせてくれるものだから、書いていなくても、見るのが好きならば「書道が趣味だ」と言っていいと思うのだ。

およそ東洋の手書き文字であれば、何でも鑑賞の対象とすべきである。古代中国の青銅器に鋳込まれた文字、現代の書家による作品、浄瑠璃の床本、老舗に掲げられた看板、道端の石碑などなど、多岐にわたる。見るべきものの数はおびただしく、展覧会に足を運んだり、本を買ったり、写真を撮ったり、現物を集めたり・・・、できることはいろいろある。ここ東アジアには、数千年に渡る膨大な文字資料・書作品群があり、そして現在も素晴らしい作品が生み出されている。

余裕があれば、手書きでないもの、東洋以外のもの、文字以外のものにも積極的に触れることで、表現の幅はさらに広がるだろう。日本国内に留まらず、書の本場、中国にも目を配り、ときには自分で中国の地を旅してみれば、新たな世界が開けてくる。

書道において、学習者は必ず臨書というものをする。横に置いた古典作品の法帖を見ながら、半紙や半切にそっくりに書くのである。臨書の際に、古典の一文字一文字、ないしは全体構成を見るのも、もちろん鑑賞の一つだ。しかしながら臨書に使われる作品は、鑑賞の対象全体から見たら、ごく一部に過ぎないのだ。

いろいろなものを見て目が肥えてくると、次第に書の良し悪しが見えてくるようになり、「これはすばらしい」、もしくは「これは見るべきほどのものではない」という判断ができるようになってくる。時に感動的な作品に出会うと、何がこれほどの感動を与えるのだろう、と理解しようとする。そして、その優れた部分を自分の作品にも取り入れてみたくなる。そのインプット、アウトプットの連続によって、腕が磨かれ、表現の幅が広がってくのである。

書は実践半分、鑑賞半分である。

2016年12月8日木曜日

肩肘張らない書がいちばんいい書ですわ

大が付くほどではないが安田靫彦が何かと好きで、昨春に東京国立近代美術館で開催された「安田靫彦展」も見に行った。

もちろんその絵に惹かれて見に行ったのだが、そこで、その絵に賛として書かれている字が、これまたいい字であることを知った。安田靫彦はもちろん書を生業としていた訳ではないが、そのヒョロヒョロした字は、良寛のそれを彷彿とするもので、あとで調べてみれば果たして安田氏は良寛の研究者として有名だったらしい。

良寛の字は脱力した、強く押せば折れて崩れてしまいそうな、か弱げな線が特徴的だが、素人がただそのまねをして書いても、まさしく間の抜けた醜い字になるのみで、良寛の書の境地には到底達することができない。良寛の書はか弱そうに見えるけれども、書の基礎はしっかりとおさえ、緻密に計算された字なのである。

しゃちほこばって一生懸命書いた字は見ていて窮屈なものだが、安田靫彦の字は、良寛同様、緊張した気持ちが弛緩するような、そんな柔らかさ、親しみやすさをもっていた。

後日、中央公論美術出版から出ている作品集『安田靫彦の書』(1979)を安価で手に入れて、そぞろに眺めていた。私は書をやっていたので、字を見れば書き手の筆の動きが想像されるのだが、安田靫彦の場合はとくにそれが顕著な感じがした。彼の肩の力の抜け具合は、字の大小を問わず、一貫していた。

安田氏の書は、画賛をはじめ、一行書、扁額など多岐にわたるが、そのなかでもとりわけ私の心をつかんだのが、書簡であった。つまり手紙である。蛇足であるが、安田靫彦の時代は手紙も墨書である。

手紙なのだから、書き手はそれをあとあと保存しようとなどとは思っていない。だから画賛、一行書、扁額などとは決定的に性格が異なるもので、そもそも「作品」として本に載るのも、書き手にとっては不本意かも知れぬ。しかし、能書家の書いた手紙は往々にして長らく保存され、軸装される場合さえある。安田靫彦も例外ではなかった。

彼の書簡を見ると、やはりその他のジャンルの書より明らかに違う。字は崩れていて、筆の運びも早く、潤滑(にじみかすれ)の差が激しく、行の中心線は通っていない。手紙なのだから、要件が伝わればそれでよく、すぐ捨てられるものだ。字を丁寧に書く必要はないのだ。

書簡以外の書は、大抵ちゃんと「おすまし」して書かれており読みやすい。しかしどこか優等生的で、比較すると見ていてつまらないところがある。

一方書簡は、書き手の筆意がありのままに見えて面白く、なおかつ自然体なのだ。早く書こうとすれば、字は崩れるのはあたりまえ。何回も墨継ぎをする間もないから、字がかすれるのもあたりまえ。前の字からの連綿(つながり)があるから、上下で中心線がずれるものあたりまえのことである。

そういう変化に富んでいる書というのは、書の世界では古くから傑作とされてきた。中国は唐時代、顔真卿の「三稿」や、平安時代の古筆切の数々を見れば明らかである。(もちろん「肩肘張って」書いた作品でも、傑作として名高いものは数多い。念のため。)

自然体が出ている書は面白い。

そう考えると、現代の公募展に出されているような多くの「肩肘の張りに張った」書作品は、まったくつまらないと言わざるをえない。似たような線の質、似たような字の大きさ、均一なかすれ、縦横ビシっとそろった中心線・・・。全部が全部というわけではないが、書道を初めて日が浅い人は、特に「優等生的」な凡作に終わることが多い。

賞状書士にでもなるならそれでいいが、面白みのない作品を床の間に飾るのは興ざめである。

肩に力の入った不自然な書が多いという事実は、実は自然体の書を書くのが難しいということの裏返しである。

自然体というのは、ただ漫然と書けばいいということではない。そもそも、現代にあって文字を筆で書くというのが「自然」なことではない。そこは不可抗力として一歩譲るにしても、変化に富んだ書を生み出すには、それ相応の創造性を持ち合わせていないといけない。線の引き方、字の崩し方、連綿のしかた等々、自然体を達成するためにはかなりの習熟を要するのだ。

肩肘張らないすばらしい書。これが私が最も好きな書であるととともに、こう書きたい、という理想である。

2016年11月10日木曜日

なぜドナルド・トランプの中国語名に「Telangpu」と「Chuanpu」があるのか

ドナルド・トランプの中国語名には、「唐纳德・特朗普(táng nà dé・tè lǎng pǔ)」と、「―・川普(―・chuān pǔ)」の2通りがある。

ファミリーネームのピンインを敢えて仮名におこすと、前者は「トゥーランプー」、後者は「チュアンプー」とでもなろうか。

どちらが元の語「trump」の発音に近いだろうか? 「te lang pu」の方は、元の子音がより忠実に残されているように見えるが、3音節もあり、元の1音節からはだいぶ長くなってしまってる。一方「chuan pu」の方は、より短い2音節であるものの、元の発音にはない「ch」という子音がある。

中国語名としてどちらが正式なのか、また、どちらが好まれているのかは、少し調べた限りでは私にはわかりかねる。voaでは「川普」が好んで使われているようだが、百度新聞では「特朗普」、「川普」が共に使われている。Wikipediaでは項目名において「川普」、「出生」の欄で「特朗普」が使われている。いずれにせよ、どちらの表記も浸透しているのは確かなようだ。


固有名詞に限らず、一般にことばを借用する時、もう少し正確には、言語Aの語Xを言語Bに音訳するとき、Xは、言語Bの音韻体系に従って多少の改変が行われる。

「トランプ」の例で考えてみよう。(アメリカ)英語における「トランプ」の発音のIPAで表すと、(方言さや厳密さは抜きにして)/trʌmp/となる。「子音・子音・母音・子音・子音」という音の連続である。しかし、中国語(普通話)において、/tr/、/mp/という子音の連続や、音節の最後に/m/や/p/が現れるようなことはあってはならない。つまり、中国語の音韻のルールに違反している。そのため、中国語の音韻規則にあわせて、音が挿入、消去、置換されたりするのだ。

「te lang pu」の場合、/t/のあとに母音を挿入し、/r/を音の近い/l/に換え、/p/の後にまた母音を挿入するなどしている。(もちろん、音韻以外に「漢字の意味」も忘れてはならない重要なファクターだが、ここでの趣旨と関係がないので考えないことにする。)


問題は「川普(chuān pǔ)」である。

/trʌmp/の頭の/tr/が、ピンインの[ch](日本語のチュに近い)に変わっている。実はこれ、英語側の音声学的なカラクリがあって、中国語話者には「チュ」のように聞こえるのである。

専門的には「摩擦化」という現象で、(もちろん方言にもよるが)英語の/t/や/d/に続く/r/は、そろぞれ「チュ」や「ヂュ」に似た音として発声されるのである。(参照

例えば「try」、「drink」、「country」、などは、実際「チャイ」、「ヂンク」、「カンチュイ」のように発音される。(機会があったら、耳を澄ましてきいてみると良い。日本人もそうやって発音すると、ネイティブっぽくなる。)

同様に、/trʌmp/も「トランプ」ではなく「チャンプ」のように発音され、/tr/の子音連続を持たない中国人には「チュ」の類の音に聞こえるというわけである。

私も、上海に旅行した時、ホステルの女性が「train」と言う単語をほとんど「チャイン」と発音していたのをよく覚えている。

上海の新古本屋

それに加え、「川普」という名前が浸透したのも、2音節という長さにカギがある。周知の通り、大半の人名が2音節である中国人にとっては、2音節というのは「座りのいい」リズムなのである。新聞の見出しや格言、キャッチフレーズに四字熟語を多用する中国語において、2音節の言葉はとても都合がいい。例えば「川普赢了(トランプが勝った)」というハッシュタグがweiboを賑やかしているが、「特朗普赢了」ではリズム的に間が抜けているというわけである。

英語側の摩擦化という音声現象と、中国語側の「2音節嗜好」という、2つの要因が互いに作用した結果が、「川普」という訳語なのである。

2016年11月1日火曜日

他言語の情報を探すとき、ふつうのグーグル検索は無力だ

私が日常的にやっている検索のコツだが、先日、人に教えたら感心されたので、書き留めておこう。

要は、ある言語での詳しい情報は、その言語に特化した検索チャネルを使え、という話。

例えば、あなたが趣味で針仕事をやっていて、韓国の刺繍が好きだとしよう。韓国刺繍の写真をちょっと調べてみようと思ったら、ふつうはデフォルトのブラウザで「韓国 刺繍」で画像検索すると思う。例えばgoogle.co.jpで。

しかし、google.co.jpでヒットする検索結果は、ほとんどが日本語である。だが日本語で書かれた韓国刺繍の情報と、韓国語で書かれた韓国刺繍の情報とは、どちらが豊富だろうか。もちろん後者だ。

そこで、現地のグーグルを使うのである。「google korea」と検索すれば、google.co.krにアクセスできる。そこで「korean embroidery」と検索すると、voila!、日本語版で検索したのより量も質もずっといい画像を見ることができるのである。

たとえ私のように韓国語が分からなくても、今のように少しの英語の知識があれば、十分な量の情報が得られる。「刺繍」の英語がわからなければ、グーグル翻訳に突っ込めばいいのだ。


現地の言葉の知識があるなら、得られる情報量はさらに多くなる。

私は大学で中国語を学んだので、多少は読めるし、中国語キーボードの使い方も知っている。日本語のサイトでは絶対に見つからない情報も、見つけることができる。

中国語版グーグルは存在しないので、私は百度(baidu.com)を使う。例えば私の好きな中国の書家のひとり「劉自櫝」を、google.co.jpと百度でそれぞれ検索した結果は、天と地ほどに違う。百度では、劉氏の肖像、略歴はもちろん、作品の写真を何十枚と見ることができる。すばらしい目の保養だ。一方、日本のグーグルでは、めぼしい情報はほとんど出てこない。中国のちょっとディープな情報は、日本の検索エンジンは無力だと言っていい。


さて、おそらく最も需要があるのが、英語圏の情報だろう。

例えば、今イギリスで(たぶん)売れっ子の作曲家、Dexter Britainを日本のグーグルで検索すると、ヒットするのはせいぜい彼のFacebookである(現時点では)。しかし本家のgoogle.comで検索すれば、彼の公式サイトがトップにヒットし、そこから無料で曲も聞くことができる。

google.comは、仕事にも役立っている。先日私は上司から、お客様に渡す名刺サイズのとある割引券を作って欲しいと言われた。私はデザイナーではないので、自力ではプレーンテキスト以上に魅力的な意匠をクリエイトするスキルはない。そこでgoogle.comで「coupon design template(クーポン デザイン テンプレート)」と検索する。得られた豊富な画像を参考に、仕事を遂行することができた。

もちろん日本語でも検索できるが、英語圏と日本語圏ではデザイナーの数が違うので、google.comの方が、洗練されたデザインが多い。

私の場合、あまり頻繁に使うので、私のGoogle Chrome(PC)では「g」と打ってEnterを押すだけでgoogle.comに飛ぶ。

いつもの検索で満足できなかった場合の、ちょっとした裏技でした。

2016年7月27日水曜日

竹細工 近作

最近作った竹細工から一部をご紹介。

母親の友人から頼まれた大きい籠。ヨガの教室で急須や湯のみを入れるそうな。仕事の合間に少しずつ作ったので、完成までにすごく時間がかかりました。竹切りから数えれば2ヶ月以上。


実家のお隣さんから頼まれた四角い籠。お子様のおもちゃを入れる籠として。サイズを1センチ単位で指定されましたので、慎重に作る必要がありました。約1センチの誤差がありますが。


最後は実家で菓子をしまう籠です。ながらく四角い空き缶を使っていましたが、ラベルが野暮ったいのと、中身が見えなくために賞味期限が過ぎたお菓子がしばしば発掘される・・・という問題がありました。中身の見える籠で解決です。

ちなみにこれは根曲がり竹ではなく、実家の近くに生えている篠竹で編んであります。篠竹の性質なのか、濡らしても乾きやすい上に、曲げるとポキポキ折れるので、大変難儀でした。もう篠竹はあまり使いたくありません・・・。


昨日完成させまして、こんな感じで使っています。


2016年5月5日木曜日

予定外の山菜採り

今は昔、じゃなかった、今日は竹細工の先生に案内して頂き、ほぼ1年ぶりの竹切りに行った。志賀高原は高天ヶ原から、湯田中・渋温泉に至る未舗装の山道を下りながら、野山にまじりて竹を取りつつ・・・、山菜も採ってきた。

80歳になる先生は山野草に恐ろしく詳しく、ちょっとやそっとの山菜図鑑には載っていないものも含め、あらゆる山菜を知っている。素人目にはそっくりな山野草も多々あるなか、名前はもちろん、食用か否か、そしてどう料理すればうまいかをご存知でいらっしゃる。

いるだけの根曲がり竹を切ったら、残りの道中は気づいたら先生による山菜レクチャーを受けていた。先生は車窓から目敏く山菜を見つけては、時々車を止めて採りに行く。山菜を摘み取りながら、これは何々、あれは何々と、畳み掛けるように名前をおっしゃるので、私は声に出して繰り返しながら、懸命に頭に詰め込んだ。というかもういくつか忘れている。

コゴミとタラの芽とゼンマイくらいしか分からない私には、9割が初めて聞く山菜だった。

例えばこれ、キヨタキシダ

先生は矢継ぎ早に山菜を摘み取って渡して下さるので、私はかぶっていた帽子にそれを入れていった。たくさん生えていたのだが、私は一人暮らしで手の込んだ料理もしないので、もちろんほんの少しづつだけ。


採ってきた山菜は、以下の通り。コシアブラとマタタビ以外、聞いたこともアリマセン。


・ミヤマイラクサ(シソの仲間)・キヨタキシダ・ナルコユリ・コシアブラ・ハナイカダ・ハリギリ(アクがあってタラの芽に似ているので、俗称アクダラ)・マタタビ

キヨタキシダとミヤマイラクサは比較的量を採って、しかも茹でるだけでもうまいと聞いたので、帰宅して早速調理した。とれたて3時間の贅沢である。

ミヤマイラクサ(左)とキヨタキシダのお浸し

2種類ともアクがないので、塩をひとつまみ入れた熱湯で4、5分茹でた後、水で洗うだけでOK。あとは鰹節をのせて醤油をたらせばで最高のツマミになる。お好みで辛子醤油もいいそうだ。一人で食べるのも寂しかったので、会社まで走っておすそ分けした。

おまけ:初めて見た一人静

2016年4月15日金曜日

Chiang Yeeによる書道入門書「Chinese Calligraphy」

以前書いたが、英語で書かれた書道関連の本には、これといってオススメできるような良書が少ない。そんなのニーズなんてありませんがなという思いはさておき、英語の書道本は、以下の条件を多く満たしているほど良い本と言えるだろう。

1)内容が「浅く広い」こと
2)著者が書の研究者であること
3)こなれた英語で書かれていること
4)図版が豊富であること
5)廉価で手に入れやすいこと

以前紹介した中田勇次郎氏の本は、上の条件のうち1、2、3、4を満たしていた。しかし内容が高度で、入手が難しいという欠点があった。(しかもでかい。)

今回紹介するChiang Yee(蒋彝)氏の「Chinese Calligraphy」は、条件1、2、4、5を満たしている。



初版は1938年だが、私が手に入れたのは1973年の第3版、第13刷である。版数と刷数の多さから、この本が評価を得ているのが分かる。ペーパーバックだから、気軽に取り出して読めるのもいい。

まず条件1について。本書は、書の基本である「書体」、「技法」、「筆画」などにそれぞれ1章が設けられており、東洋の書を知らない欧米人に寄り添って書かれている。

条件2について。蒋彝氏は書の研究者ではなかったと思うが、中国で生まれ育った書家であり、書の知識と実践についてはネイティブである。

条件4について。多くの古典作品を含む図版と図解が豊富である。発刊が古いというのもあってか、白黒であり、図版については決して質が良いとはいえないけれども、入門書としては十分な質量である。

条件5について。本書は洋書だから店頭には置いていないだろうが、まだ絶版にはなっていないようで、アマゾンで簡単に買える。

総じて言うと、本書はもし海外の友達に「書道のことが知りたいんだけど何かいい本ない?」と言われた場合に、まず薦めたい1冊である。

さて、本書に一つ注文をつけるとすれば、文章のこなれ具合であろうか。

本書は中国語版の英訳でなく、著者自身が英語で書いた本である。蒋彝氏はイギリスの大学で教鞭をとったらしいから、英語はかなりうまいんだけれども、それでもやはりアラがあるような気がする。英語が間違っているというわけではないんだけど、いかにも「英語を勉強しました」という感じが彼の文章のあちらこちらから匂ってくる。自然でない、大学の先生らしいきまじめなスタイルの文章である。

あと、中国人らしい、過剰とも言える抽象的、詩的表現が多い。例えば以下のような表現。

A horizontal line or Heng (横) 一, so written as to seem like a formation of cloud stretching from a thousand miles away and abruptly terminating.(112頁) 
(水平画あるいは「横」。数千里かなたにたなびく片雲がにわかに消滅するように書する。)

こう抽象的、主観的なことを書かれてしまうと、読む側にとっては少々困ってしまう。もっと具体的、客観的な解説が欲しいものである。

こうしたクセのある文章ゆえ、文章はやや読みにくい。

2016年2月21日日曜日

肉を食べないのが「ベジタリアン」なら、プラスチックを使わないのは「ミニマル・ポリマー」ですかね?

先日、プラスドライバー1本を買うか買わないかでホームセンターで10分くらい迷ってしまった。


そのときはドライバーがどうしても必要だったのだが、買う前に熟慮していた自分自身に、少し嫌気が差した。自分は合成樹脂をこんなに敬遠していたのかと。

僕はプラスチックとか合成樹脂のモノをあまり買わない。最初から意識してそうしていたわけではないが、ここ2、3年、プラスチック製品は可能な限り避けてきたような気がする。

さすがに、パンの袋とか、ラップとか、梱包材とか消耗品としてのプラスチックはどうしても買わざるを得ないこともあるけど、耐久財、つまり収納ケースだとかコップだとかカバンだとかコーヒーマシーンだとかだとか・・・、そういうプラスチックが使われているモノって、そういえばほとんど買っていない。ボールペンとかクリアファイルとか、もらったやつがいっぱいあって買う必要のないものもあるし。

もちろん、僕の趣味がそういうプラスチックのモノをそんなに必要としないのもある。書道とか古本とか民藝ね。

だからここ2、3年の間に僕が買ったモノの大半は、紙だったり陶器だったり竹だったりするのだ。部屋に大量に積まれている古本は紙。(10コくらいだと思うけど)蚤の市や日本民藝館とかで買ったうつわは陶器。洋服とかを収納している行李や籠は竹、というふうに。つまり自然の素材を使ったモノばかりだ。

プラスチックって便利だけど、環境や人体への悪影響とかを考え合わせると、どちらかと言うとまあ無尽蔵に使うのはやめたほうがいい部類に入るでしょう。

アンタも紙を大量消費しているじゃないか、と思われるかもしれないけど、プラスチックと紙の決定的な違いは、土に還るかどうかと、その生成過程なのだ。つまり紙は土に還るが、プラスチックは還らないというのが一つ。紙の原料となる植物(木だったり楮だったり)は数年から数十年単位で成長するのに対して、プラスチックの原料となる石油は、生物の死体が高温高圧で油に変わるのに数百万年のスパンがかかるというのが二つ。だから石油が枯渇するという話は聞いても、紙が枯渇するという話は聞かないわけ。(別に紙の無駄遣いを擁護しているわけではないけど。)

プラスチックって、あまり使わなくても生活できる。毎日の買い物でレジ袋を貰わないだけでもエラい違いだし。むしろ生活の質が上がることもある。ポリエステルじゃなくて、綿の洋服を着たいじゃないですか。漆器らしく作られた合成樹脂のお椀でなくで、値段は10倍しても本物の漆器で味噌汁を飲んでみたいじゃないですか。以前読んだ「器ってのは、多少無理して買うのが当たり前なんだから」という陶器屋のオジサンの言葉が忘れられない。

だから、プラスチックを極力使わないライフスタイルって、あっていいと思うんだ。もう実践している人もいるだろうけど、もっと広まっていいと思う。プラスチックの代わりに、木、陶、竹、藁、革、綿、麻、紙などを積極的に使っていくライフスタイル。

だったら名前をつければいいんじゃないのか。「ベジタリアン」とか「弁当男子」とか「おしゃP」とか、名前をつけるとそういう人たちにスポットライトが当たりやすくなるから、プラスチックを使わない主義の人にも名前をつけるのだ。

日本語で堅苦しく言えば「自然素材主義者」だろうが、英語でスマートに言えないものか。「ナチュラリズム」は芸術における「自然主義」、「マテリアリズム」は「唯物論」という意味になってしまいどうもよくない。

「ナチュラル・マテリアリズム」、「アンチ・プラスチック」などいろいろ考えたが、「ミニマル・ポリマー」くらいがカッコいいかな・・・という感じ。訳せば「最小限度のポリマー」。プラスチックは高分子(ポリマー)なので。

このミニマル・ポリマーが浸透すれば、まず、プラスチックでない包装がもっと普及するだろう。正直言って、お皿一つ、キャベツ一つ買うくらいだったら古新聞で包んでくれれば十分だ。(実際タイのチェンマイの土産物屋ではそうだった。)

もう一つ、需要と供給の関係によって、自然素材を使ったモノがもっと安くなるだろう。ペン立て一つだって、ちゃちなプラスチック製じゃなくて、陶器のマグカップに立てたらおしゃれだぞ。(僕は取っ手のとれた益子焼のマグカップを筆立てにしている。)

2016年2月15日月曜日

中田勇次郎(1983)『Chinese Calligraphy』

最近買った古本。


学生の時から、英語で書かれた書道の入門者向けの文献はないものかと探している。もともと大学で入っていた書道部に、海外からの見学者や部員がいたため、その人たちに読んでもらいたいと思って探し始めた。大学を卒業した今となっては、もう調べ出す必要もないのだが、私の個人的な探究心で、ありはしないかといまだに鼻を利かせている。

が、適当なものはなかなか見つからない。

以前にも書いたことがあるのだが、私の大学の図書館に関する限り、書に関する洋書は、ほとんどが中途半端な内容である。どういう風に中途半端なのかというと、たとえば

①一人の書家(たとえば米芾)を特集したり、個人のコレクションの紹介であったりして、内容が偏っている
②著者の書に関する知識が不十分であって学術的に内容が薄い
③日本人が書いていても、翻訳が下手であるか、間違っている

といった感じ。

英語教育である程度有名な母校の図書館でさえこの状況なのだから、一般の書店や他の大学図書館ではまず望み薄だろう。書道科のある大学ならありそうな気もするが、母校の近くにはそういう大学はなかった。

要するに、私が探し求めているのは、上の逆で、

1)内容が総合的で
2)書の研究者によるもので
3)誤訳のないもの

ということになり、さらに、

4)図版が豊富で
5)廉価で手に入れやすい

となれば理想である。

最初の1、2、3をなるべく満たし、なおかつ4を満たす本の一つが、中田勇次郎氏の『Chinese Calligraphy』である。存在は知っていたが、比較的安価でようやく手に入れることができた。本書は、1982年に淡交社から出された同氏による『中国の美術②書蹟』の英訳である。

一般に書に関する文献は「理論」、「実践」、「鑑賞」に分類されうるだろうと思うが、本書は理論を主とし、巻頭のカラー図版で鑑賞も兼ねる。

とはいえ本書は完璧ではない。

まず内容がやや高度であること。もともと日本人向けに書かれた本の英訳だから仕方ないことではあるが、たとえば漢字には篆隷楷行草の5体がある、といったごく基本的なことは、少なくとも図版を伴っては触れられておらず、海外の初学者には難しいということ。また書名から明らかなように、日本の書道は全く触れられていない。

もう一つは、条件5を満たしていないこと。本書は絶版で、入手が難しく、中古も値段が高い。

2016年1月14日木曜日

壊れた古い竹かごを再生しました

ヤフオクで買った古い竹かごが、届いてみたら壊れていた。押しつぶされて、半分近くの竹が折れており、使用に耐えうる状態ではなかった。


かごは綺麗な飴色に変色していて、何十年も前のヴィンテージである。当時の職人が作った竹細工を壊すのは、いつもだったらおそれ多くて出来ないのだが、このかごに限っては、このままではただのゴミになってしまうこともあり、なおかつ作りも単純素朴だったので、補修することにした。

11月半ばのことなので、もうちょうど2か月前のことである。


かごは根曲竹の六つ目編みの浅いかごで、胴(側面のこと)が押しつぶされていた。胴部分を中心に、使われている竹の半分近くが折れていた。竹ひご自体も細身で柔らかく、これでは使いものにならない。

まずお湯につけて、竹を柔らかくしたら、縁の巻き竹から外していった。農作業に使われていたのだろうか、竹の、特に見えていない裏側は土ぼこりだらけだった。


巻き竹と芯竹は、問題なく再利用できそうだ。芯竹も土ぼこりで真っ黒だったので、洗う必要があった。洗って雑巾で拭くと、飴色が美しく現れた。


折れていない竹は再利用し、折れた部分は、4ミリに幅を揃えた新しい根曲竹を使った。


完全にバラバラにした後、新しい根曲竹を足しながら、底を編む。底に使われている竹は60本だったが、新しいものに取り替えたのはそのうち24本だった。


腰上げと縁巻きをして、再生完了。これで使用には問題なし。

だが、同じ形に復元することができなかった。元の形は背が低くて、縁の方に行くほど口が広がっていたのだが、再生後は背が高く、しかも寸胴になってしまった。口径は5センチ以上狭くなった。やはり、私が再生するには時期尚早だった。