関啓子「言語障害」の授業と『失語症を解く』

ICUの言語学の授業に「言語障害」というのがある。いくつかある言語障害のうち、失語症を中心に、その症状やリハビリ、患者への接し方などの理解を深めることが主眼である。

失語症はおろか言語障害も、知人や親族にそういう方がいない限りあまり一般に知られていない。私はたまたま、失語症に触れた本をいくつか読んだことがあって知っていた。

言語障害と言語学がどこでつながるのか。簡単に言えば、脳梗塞などで言語機能の一部または全部を失った患者の、脳の損傷部位と症状を照らし合わせることによって、脳のどの部分が言語のどの側面を(主に)司っているのかが分かるのである。言葉を生み出し受け取る人間(または脳)の活動を知る上で、失語症患者の貢献は大きい。言語学の中でも、多分に脳科学とかぶった領域である。

ICUのこの授業では、そうした言語学的なことはほとんど扱わず、障害としての失語症、つまりその症状や医療制度や医療倫理にスポットが当てられる。

さて、私がここで本題にしたいのは授業の内容ではなく、講師の関啓子さんである。

関さんは、言語聴覚士として長年多くの言語障害の患者と関わってきたのだが、2009年に、なんと自身も脳梗塞で倒れ、言語障害を持つ身となったのだ。全くの幸いにして、自らリハビリの専門知識があり、かつ周りの専門家の助けが功を奏したこともあり、10ヶ月という期間で職場復帰(神戸大学大学院保健学研究科教授)を果たした。(この回復の早さは異常なのだという。)

もうお気付きかもしれないが、これは非常に重要な意義を持っている。関さんがICUで教えている、もちろんそのこともとても幸運なめぐり合わせであるが、何よりも強調すべきは、関さんが自分の専門の障害を経験したということだ。しかも、これは例えば、聴覚障害の専門家が耳が聞こえなくなったのとはわけが違う。非常に雑な言い方だが、失語症とは相手の言ったことが理解できなかったり、思ったことが話せなかったり、文字が書けなかったり、読めなかったりする障害である。つまり多くの場合、一旦失語症にかかると、患者は自分の思考を言語で表出することができない。自分の内状を外に表現できないのであるから、周囲の人はその人の思いを推測するほかない。(まさにこれが失語症に対する誤解につながる理由である。)しかも、重症度にもよるが、失語症は完治することがほとんど無いらしい。それゆえ、失語症患者の体験をつづったものは必然的に少ない運命にあるのだ。自分を記録しようにも、することができないのだ。

さて関さんは、自分の障害を専門としており、しかも失語も比較的軽度で、読み書きの障害は出ず、発話の不自然さを除けば正常といえるまでに回復なさった。一体何が言いたいのかというと、関さんは専門家の目で失語症を「中から」見、しかも今、それを発信することができるのだ。

それが今学期のこの授業であり、あるいは講演であり、あるいは書籍なのである(近々発売という)。

・・・などということを、履修前や第一回授業で考えていたら、気付いた。そういえば去年同じこと書いてた!

失語症の研究者が失語症になったら、内側から見た失語症が研究できて、とても面白いと思うんですけど、どうでしょう?

下は、授業の教科書。2003年、関さんが脳梗塞を発症する前に書かれた。

関啓子(2003)『失語症を解く―言語聴覚士が語ることばと脳の不思議』人文書院

失語症を解く―言語聴覚士が語ることばと脳の不思議 [単行本] / 関 啓子 (著); 人文書院 (刊)

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