谷崎潤一郎「陰翳礼讃」

もう何週間か前のことになるが、谷崎潤一郎の随筆「陰翳礼讃」を読んだ。このごろは本を読んでも、紹介するほどでもないと思ったらブログに書かないできたのだが、「陰翳礼讃」は、備忘録と銘打った本ブログに、やはり書き残しておきたいと思った。

本題に入る前に一つ断っておくと、このブログでも何度か触れた記憶があるのだが、私には文学的美しさがいまいち理解できないのだ。書き手の編み出した言の葉の妙に、魂を揺さぶられたというような経験がないのである。

綺麗な文章というのなら分かる。句読法を守ることから始まって、適切な言葉遣い、文法的正しさ、適度な文の長さ、論理性などは、私も判断できる。また、巧い文章というのも分かる。ユーモアがあったり、説得力があったり、教養を感じさせ、比喩なども巧みに使ってストーリーを展開する文章は、私の思う巧い文章である。だが、それから一歩進んで、美しい文章となると、私には想像しがたい。

この美的感動の欠如は、第一にはインプットの貧困があるのであろう。私はそれほど本を読むほうではないし、有名どころの文学はもっと読まない。もしシェイクスピアやドストエフスキーを読んだならば、私も開眼するかもしれない。第二には、私には文学への感受性が生まれつき備わっていないのかもしれない。大学のある文学の先生のように、和歌を読んで涙を流すというのが、私の理解を超えているのである。その先生と私とは、別の種類の人間なのだとさえ思ったことしばしばであった。

でも安心。後者は誤りであることが実証された。「陰翳礼讃」は、今まで読んだ文章の中でおそらく初めて、私に美しい文章の何たるかを少し分からせてくれた気がする。読んでいて、内に何か沸き立つものを感じた。心奮い立たされたと言っていいかもしれない。文章を読んで、初めて「ああ」という感嘆の境地に達した。私にも、こうした文章に心打たれるだけの器がやっと出来上がってきたということなのかもしれない。

これは内容自体が美に関するものだからというのもある。つまり「陰翳礼讃」の美しさは、表現に負うところ半分、内容に負うところ半分ということである。考えてみればまあそれも道理で、文章自体が良質でも中身がつまらなければ、美しさは無いであろう。逆もまた然りである。

「陰翳礼讃」は話題が転々と変わる。その中でも、私が特に強く印象づけられたのは、薄暗がりにおける漆器の演出効果についての部分だった。その視覚的描写には、何度読んでも気持の昂ぶりを感じる。谷崎潤一郎の感動がありありと伝わってくる。そして読者である私にも、その感動をいつか体験したいと思わせる。

事実、この漆器に関わる部分は「陰翳礼讃」の中でも山場のひとつである。この文章は昭和8年から9年にかけて雑誌『経済往来』に掲載された。後世の日本人はもちろん、翻訳もされていて、世界にも影響を与え続けている文章である。私の読んだ中央公論社の全集(1968年)で40ページ程度だから、ひるまずに読んでみてほしい。

さて、いま「山場」という言葉を使ったが、山があれば谷もあるわけで、批判的に読書することを大学で刷り込まれた者としても、この文章を、片言隻語隅から隅まで諸手を挙げて称揚するわけにはいかない。雑誌の誌面の都合のために多少文章を嵩増ししなければならなかったのであろうか、最後でなぜか「柿の葉鮨」の話題が唐突に出てきて、せっかくの雰囲気が台無しである。いやそれだけではない。後ろに行くほど、文章に冴えがなくなってくる気がする。詳しく書いて先入観を植え付けてもいけないので、後は個人の判断にお任せしたい。

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