脱ネットのすすめ:『つながらない生活』と『毒になるテクノロジー』
ネットに対する熱が、少し冷めてしまっていた。
ウィリアム・パワーズ(有賀裕子訳)(2012)『つながらない生活』プレジデント社
William Powers. (2010). Hamlet's Blackberry. Harper.
ラリー・D・ローゼン、(児島修訳)(2012)『毒になるテクノロジー』東洋経済新報社
Larry D. Rosen. (2012). iDisorder. Palgrave Macmillan.
そう思っていたところへ、上の2冊が前記事の本と同じ書棚にあったものだから、つい手にとってしまった。
ここ1か月あまり、急にストンとインターネットの世界に興冷めしてしまった。多分2月後半からというもの、気づけば「脱インターネット」とか「反テクノロジー」とかのことばかり考え事をしている。いろいろ思うところはあるのだが、アンチ・インターネットなことをつらつらとインターネット上に書くのは皮肉以外の何物でもないので、簡潔に。
ネットの情報が途方もなく莫大で、どうしようもないほど浅薄なことに気付き、嫌気が差してしまった。
私はかなりのインターネット好きで(中毒かな?)、ついついクリックをしていろいろなところを見てしまう。だが2月のある日、Facebookをしていてリンクをたどるうちに、リンクがリンクを呼び、情報が私の処理能力を凌駕し、溢れかえっているのに気付いた。どす黒い津波のように、情報が氾濫し、押し寄せてくる気がした。量が多いだけならまだしも、ほとんどが実のない全く皮相なものばかりだと来た。これは暴力だとさえ思った。急にショックを受けた。
そして、それまでどれだけ貴重な時間を無駄にしてきたのか痛感し、悔しさが込み上げた。もちろん悪いのは自分なので、この虚脱感をやる瀬はない。
今ごろ何を言うかと思うだろうが、ネット上の世界がこの世を形作っているのではないと意識し始めてからは、ネットに対する態度が冷め始めた。もしくは少し冷静でいられた。
同じようなことを考える人は(当たり前だが)私以外にもいて、先日は、大学の友人で私と同じ反スマホ派の方と、いかにインターネットや携帯から離れるかについて話したばかりだった。(「脱ケータイ」および「反スマホ」も、ここ半年くらいちょくちょく考えていたが、どうやらスマートフォンは無くても大丈夫としても、全くのモバイル機器無しは難しいという結論に至った。)そして『つながらない生活』の著者パワーズも、似た考えを持つ1人だった。彼も、「世界とつながることはいいことだ」というパラダイムに、違和感を持っていた。
パワーズがカタブツの一昔前のアナログ派なわけではない。むしろその反対で、テクノロジーなどに関するライターである彼は、パソコンやスマホが仕事道具のバリバリのデジタル派だ。メールをあまりしない私なんかより何十倍も「つながった」生活をしている。彼がつながりすぎた生活をしていたからこそ、つながりの氾濫した現代に疑問を持ち始めたのだ。私はどちらかと言うとネットの情報爆発と時間の浪費に嫌気が差しているので、パワーズと少し方向性は違うが、同じ問題の違う側面に過ぎないと思う。
彼はつながった生活とつながらない生活の調和を、同じくテクノロジーの転換期(紀元前から20世紀まで)に生きた7人の先人の生き様に求める。温故知新というわけだが、正直、この部分はこじつけに感じられてつまらない。だが、彼のメッセージはよく伝わった。世界とつながって他人から「ちょっかいを出される」のはもう懲り懲りなのだ。
本書を読みながらインターネットに耽るのはとても悔しかったので、試しに、パソコンの電源をつけて世界と「つながる」のは最小限にしてみた。本書を読み始めた昼下がりから、読み終わる翌日の昼前まで、パソコンを開いたのは1時間は裕に切っているはずだ。いつもは朝食後にパソコンを立ち上げて「つながる」のが習慣になっていたが、それは我慢した。分かりきっていたことだが、数時間インターネットから離れたところで、何の損失もなかった。
2冊めの『毒になるテクノロジー』は、興味あるところだけをざっと流し読みしたが、なかなか深刻な問題だ。こちらは毛色が少し違って、心理学教授である著者が科学的な知見を基に、テクノロジーによって変わりつつある人間の行動、心理を分析している。著者はテクノロジーの過剰利用によって生まれた様々な精神疾患を、「iDisorder」と名づけ、実例とともに症状、原因、対策などを挙げる。
例えば私は依存症だろうかと思って、専門に開発された尺度を当てはめてみたが、少なくともそう診断されるおそれは無さそうだ。確かに私は、暇があればFacebookかもしれないが、例えば地元に帰って、野良仕事のために1日インターネットが使えなくても、全然平気だ。
ただ、一つ気になる症状があった。性格だと思っていたものが、どうやら立派な名前を与えられているらしい・・・・・・。まじかよ。
――
・以上、浅薄な愚痴に付き合わせてしまい、誠に申し訳ありません。
・あ、あとこれだけ言っておきながらインターネットにいる時間はほとんど変わっていないので、まったく不言実行の対極もいいところですね。
ウィリアム・パワーズ(有賀裕子訳)(2012)『つながらない生活』プレジデント社
William Powers. (2010). Hamlet's Blackberry. Harper.
ラリー・D・ローゼン、(児島修訳)(2012)『毒になるテクノロジー』東洋経済新報社
Larry D. Rosen. (2012). iDisorder. Palgrave Macmillan.
そう思っていたところへ、上の2冊が前記事の本と同じ書棚にあったものだから、つい手にとってしまった。
ここ1か月あまり、急にストンとインターネットの世界に興冷めしてしまった。多分2月後半からというもの、気づけば「脱インターネット」とか「反テクノロジー」とかのことばかり考え事をしている。いろいろ思うところはあるのだが、アンチ・インターネットなことをつらつらとインターネット上に書くのは皮肉以外の何物でもないので、簡潔に。
ネットの情報が途方もなく莫大で、どうしようもないほど浅薄なことに気付き、嫌気が差してしまった。
私はかなりのインターネット好きで(中毒かな?)、ついついクリックをしていろいろなところを見てしまう。だが2月のある日、Facebookをしていてリンクをたどるうちに、リンクがリンクを呼び、情報が私の処理能力を凌駕し、溢れかえっているのに気付いた。どす黒い津波のように、情報が氾濫し、押し寄せてくる気がした。量が多いだけならまだしも、ほとんどが実のない全く皮相なものばかりだと来た。これは暴力だとさえ思った。急にショックを受けた。
そして、それまでどれだけ貴重な時間を無駄にしてきたのか痛感し、悔しさが込み上げた。もちろん悪いのは自分なので、この虚脱感をやる瀬はない。
今ごろ何を言うかと思うだろうが、ネット上の世界がこの世を形作っているのではないと意識し始めてからは、ネットに対する態度が冷め始めた。もしくは少し冷静でいられた。
同じようなことを考える人は(当たり前だが)私以外にもいて、先日は、大学の友人で私と同じ反スマホ派の方と、いかにインターネットや携帯から離れるかについて話したばかりだった。(「脱ケータイ」および「反スマホ」も、ここ半年くらいちょくちょく考えていたが、どうやらスマートフォンは無くても大丈夫としても、全くのモバイル機器無しは難しいという結論に至った。)そして『つながらない生活』の著者パワーズも、似た考えを持つ1人だった。彼も、「世界とつながることはいいことだ」というパラダイムに、違和感を持っていた。
パワーズがカタブツの一昔前のアナログ派なわけではない。むしろその反対で、テクノロジーなどに関するライターである彼は、パソコンやスマホが仕事道具のバリバリのデジタル派だ。メールをあまりしない私なんかより何十倍も「つながった」生活をしている。彼がつながりすぎた生活をしていたからこそ、つながりの氾濫した現代に疑問を持ち始めたのだ。私はどちらかと言うとネットの情報爆発と時間の浪費に嫌気が差しているので、パワーズと少し方向性は違うが、同じ問題の違う側面に過ぎないと思う。
彼はつながった生活とつながらない生活の調和を、同じくテクノロジーの転換期(紀元前から20世紀まで)に生きた7人の先人の生き様に求める。温故知新というわけだが、正直、この部分はこじつけに感じられてつまらない。だが、彼のメッセージはよく伝わった。世界とつながって他人から「ちょっかいを出される」のはもう懲り懲りなのだ。
本書を読みながらインターネットに耽るのはとても悔しかったので、試しに、パソコンの電源をつけて世界と「つながる」のは最小限にしてみた。本書を読み始めた昼下がりから、読み終わる翌日の昼前まで、パソコンを開いたのは1時間は裕に切っているはずだ。いつもは朝食後にパソコンを立ち上げて「つながる」のが習慣になっていたが、それは我慢した。分かりきっていたことだが、数時間インターネットから離れたところで、何の損失もなかった。
2冊めの『毒になるテクノロジー』は、興味あるところだけをざっと流し読みしたが、なかなか深刻な問題だ。こちらは毛色が少し違って、心理学教授である著者が科学的な知見を基に、テクノロジーによって変わりつつある人間の行動、心理を分析している。著者はテクノロジーの過剰利用によって生まれた様々な精神疾患を、「iDisorder」と名づけ、実例とともに症状、原因、対策などを挙げる。
例えば私は依存症だろうかと思って、専門に開発された尺度を当てはめてみたが、少なくともそう診断されるおそれは無さそうだ。確かに私は、暇があればFacebookかもしれないが、例えば地元に帰って、野良仕事のために1日インターネットが使えなくても、全然平気だ。
ただ、一つ気になる症状があった。性格だと思っていたものが、どうやら立派な名前を与えられているらしい・・・・・・。まじかよ。
――
・以上、浅薄な愚痴に付き合わせてしまい、誠に申し訳ありません。
・あ、あとこれだけ言っておきながらインターネットにいる時間はほとんど変わっていないので、まったく不言実行の対極もいいところですね。
この間はどうも。
返信削除自分も情報・ネット中毒だなぁと思うので気になります。
テクノロジーとメディア、というところだとマクルーハンの言ってることがすごく示唆に富んでて面白いです。
彼自身は1980年くらい没なのだけど、特に"身体の拡張"の考え方なんかが昨今のインターネット×ポータブルデバイスの発達と絡んで最近ちょくちょく名前を見るような。
どうも、コメントありがとうございます。
削除マーシャル・マクルーハンですよね?この人『つながらない生活』に出てきます!偶然ですね。情報のソフトではなく、それを運ぶハードが及ぼす影響に着目した人として本書に出てきます。コンピュータもままならない時代の人なのに、未来を的確に予言しているようですごいですね。