2014年9月8日月曜日

柳田國男「遠野物語」など

柳田國男(1973)『遠野物語』新潮文庫


先日は宮本常一を読んだが(7月27日の記事)、民俗学ならば柳田國男の「遠野物語」を読まずにはいられないだろう。

そのときの記事で、文語体の「遠野物語」より宮本常一の方がおすすめだと書いてしまったことを、まずお詫び申し上げたい。実はそのとき、「遠野物語」を読んだことがなく、文体だけを見て勝手に比較してしまったのである。一応情報を発信する者として、読んでくださる方に対して大変恥ずかしいことをしてしまった。そして何より柳田國男に対してもまことに礼を失した発言であったと、読み始めて後悔した。

それほどに面白かったのである。全く、「面白い」以外の形容詞がすぐに飛び出てこないのが悲しい。しかし、読み始めてすぐ、近くにいたバイトの知り合いの方に「遠野物語面白いです」と声に出して言ってしまうほどに興奮したのである。

私にとって「面白い」本というのは、基本的に、学術的であれ啓蒙的であれ何であれ、知ることが多いものである。つまり「遠野物語」は、私にとって新たに知ることが満載だったのである。

岩手県遠野地方に言い伝えられる河童や神隠し、山女、今も続く民間信仰、年中行事などが、1つ数行で語られる。それが100あまり集められている。人々の口伝いに受け継がれ、今までまともに取り上げられることのなかった精神世界。科学が発達する以前の、人知の及ばない存在を本気で信じる世界は、20世紀の、それに日本での記録だとしても、現代の私達からすればまったく異質の文化だと感じた。いかに近代化が急速に進んだかがよく分かる。もちろん遠野が特別なのではなく、さらに遡れば日本全体に同様の民俗があったのである。

侮蔑的に聞こえてしまうかもしれないが、そうした前近代の精神世界は、無知蒙昧の世界と言える。科学の普及する前の、知識の欠如という意味での「無知」、超自然的な、一般の人間の知り得ない何かが、どこかに潜んでいるという意味での「蒙昧」である。すべての現象がすっきり説明されることのない、曖昧な、暗い部分が残ってしまう世界である。それが、柳田國男の鮮やかな、飾らない文章から、生々しく伝わってくる。

文語文ではあるが、極めて平易な文語文である。文語というと、「源氏物語」のような古典文学を想像してしまうが、ややこしい助動詞の解読もないし、主語の省略とかもない。高校の古典の基礎をしっかり押さえてあれば、問題なく読めるものである。私は現代日本語を読むのと大差ない速さで読めると思った。いやむしろ現代語より簡潔に表されているとさえ言えるかもしれない。「・・・したのだ」、「・・・てしまった」、「していた」などは、「き」、「せり」などと書けば足りてしまうのだから。

8月初旬に読む。「遠野物語」の他に「草の名と子供」、「木綿以前の事」、「酒の飲みようの変遷」も併せて読んだ。また「遠野物語拾遺」は、現代語である点が違うだけで、正編よりも増量しているので、「遠野物語」だけで物足りなければ是非おすすめする。

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