2014年9月11日木曜日

柳宗悦『柳宗悦コレクション2 もの』

柳宗悦(2011)『柳宗悦コレクション2 もの』筑摩書房


読んだのはもう2か月くらい前、7月はじめのことだが、書き留めておかないとやはり記憶の中に埋没してしまうし、おすすめの本でもあるので、簡単に書いておく。

ごく最近に出た、柳宗悦の論考集3冊シリーズのうちの1つだ。柳宗悦の著作は膨大で、有名なものならば文庫で簡単に読むことができるが、その他の文章は大きな図書館で全集に当たるか、古本屋を探さねばならない。本書に収められた34の文章のうちには、他の文庫では読むことができないものが多い。

内容の多くはさすがに記憶が薄れてしまっているが、ひとつ今でも覚えているものがある。読んだときは、柳宗悦がまさしく私の考えていたことを代弁してくれたことに嬉しくなり、そしてまた自信を得た。「『見ること』と『知ること』」というタイトルで、本書で10ページ程度の小編だ。

いくら知識を得て、言葉を尽くして書き表わしても、直感で見ない限りは、美の本質には迫れないという話。

美は一種の神秘であるとも云える。だから之を充分に知で説き尽くすことは出来ないのであろう。(280ページ) 
一枚の絵の解説を、かかる美学者や美術史家が書くとしよう。若し彼が直観の人でなかったとすると、直ちに彼の解説に一つの顕著な傾向が現れてくる。第一彼は彼の前にある一幅の絵を必ず或る画系に入れて解説する。或る流派の作に納めないと、彼は不安なのである。絵はきれいに説明のつくものでなければならない。(中略)彼の文章はここでいつも或る特色を帯びる。例外なく私達が逢着する事柄は、彼がその絵の美しさを現すために、如何に形容詞に苦心するかにある。言葉は屡々大げさであり、又字句は異常であり珍奇でさえある。而もその言葉数が極めて多量である。彼は形容詞の堆積なくして美を暗示することができない。(281-2ページ)

難しいことではない。別に美学者や美術史家でなくとも、何か抜群に美しいものに出会ったとき、もしくは素晴らしい文章に出会ったときでもいい、それがどんな言葉の表現も適切でないと感じた経験は、誰しも持つのではないだろうか。どんな形容詞もぴったり来ず、どんな美辞麗句を連ねても自分の中の感動を完璧に言い表すことはできないというもどかしい経験だ。

そういう目が醒めるような感動は、私は1年のうちにも片手で数えるくらいしかないが、ブログでそれを書かなければならないときは、大変である。類義語辞典も引きながら何とか書き出してみるが、それは私の感情を完璧には表現しきれない。今では受け入れているが、以前は、言葉で表せないものはこの世にあるのだということに戸惑った。

言語は万能ではないのかと、悲しくなったときもあった。もちろん私が文才に恵まれていないこともある。どうせ不完全なのだ、と諦めて、あるところで妥協するしかない。無理をして難しい言葉を並べると、かえって自分の言い表したいことから離れていく気がするので、むしろ「感動した」とか「素晴らしい」とかいう陳腐で応用範囲の広い言葉で済ませて、あとは読者の想像にお任せすることもある。

柳宗悦の言葉に後押しされて、もう美を無理やり理性で完璧に解釈しなくてもいいと思っている。しないとは言わない。言葉にしなければならないときは、できないなりにベストを尽くすまでなのだ。

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