谷崎潤一郎『細雪』をすすめられて

谷崎潤一郎の『細雪』を友人に進められて、2週間ほどかかって読み終えた。900ページ近くあって尻込みしたのだが、春休みの時間のある今ならと思って読んだ。(小説は、10月に江戸川乱歩を読んで以来だ!)

まったく小説を読まないのでまともな批評なぞ書けっこないけれども、読みながら感じたことを書き留めておこうと思う。『細雪』をこれから読むという人は、なるべく先入観を持たない方がいいと思うから、詳しく読みたくない方のために、結論だけ初めに書いておこう。

結論:一読をオススメします。

中央公論社の『谷崎潤一郎全集』(1968)で読んだが、上中下が一緒になっていて厚い!

『細雪』は、昭和10年代の、関西のある上流の家庭の姉妹を描いている。

文章がとても美しい、という触れ込みで薦められてたので、文章に対する審美眼がいまいち欠けている私は、美しい日本語とはどんなものだろうかと心して読み始めた。結論から言うと、『細雪』の日本語の美しさをついに味わえずにしまい、そこらへんの感受性がとんと欠如していることを再認識したのであるが、谷崎潤一郎のあの特徴的な、読点の続くものすごく息の長い文章が、ほとんど苦にならなかった。私はだらだらと続く長文はあまり好きではないのだが、『細雪』の文は、部分と部分の関係が稠密でないので、割と苦労なく読めるのだ。

日本語に関連していうと、登場人物の交わす関西弁が心地よい。読み始めてからというもの、頭の中が関西弁になってしまっていたほどだ。

『細雪』はかなりの長編だが、何か一つ大きな事件があるのではなく、中くらいの事件が立て続けに起こる感じで、それが読むのを飽きさせなかった原因の一つでもある。もちろん、物語の方向は一貫したものがあるのだが、『細雪』は(一部を除いて)連載だったこともあって、続きが読みたい、と思わせるように、細かに緩急がつけられている。物語に大きな波があるわけでもなく、これで900ページは長い、間延びしている、と、初めのうちこそは思え、そこは谷崎の文章と構成の妙で、結局冗長さは感じなかった。

さて、『細雪』を何よりも『細雪』たらしめているものは、やはり舞台となった昭和10年代当時の倫理観で生きる、登場人物の心情の機微ではあるまいか。当時のならわし、特に男女の立場、家族、交際、結婚に関する習俗は、今とは比べ物にならないほどの厳格さをもって効いていた。良い悪いは個人の判断に任せるとして、現代では(少なくとも私の周囲では)ほとんど消えてしまっている価値観である。だから平成生まれの私には、当時の価値観の中に生きている登場人物の心情の陰翳が、奥ゆかしく映る。それは私の安直なノスタルジーだと言えばそれまでであるが、谷崎の描き出すデリケートな人間関係のドラマは、物語を一層深いものにしているのだ。

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