『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』

ガイ・ドイッチャー(椋田直子訳)(2012)『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』インターシフト
Guy Deutscher. (2010). Through the Language Glass.

言語が違えば、世界も違って見えるわけ [単行本] / ガイ ドイッチャー (著); 椋田 直子 (翻訳); インターシフト (刊)

言語学には、検証がとても難しいために、全くと言っていいほど手付かずのまま放ったらかしにされている疑問がいくつかある。

本書では、2つの大きな問題を扱っている。1つは、言語は思考に影響を与えるのだろうか(もしくは制限しているか)という問い、もう1つは逆に、文化は言語に影響を及ぼすのだろうか、という問いである。前者はいわゆる「サピア・ウォーフの仮説」として知られているものだが、現在では彼らの元々の説には懐疑的な向きが一般的である。ある言語で表現されない物や概念は、その話者は思考することができないという強い仮説は現在では否定され、それをまともに信じている言語学者はいない。

しかし、言語から思考という方向にせよ、文化から言語という方向にせよ、何らかの決定は少しあるかもしれないというふうには、おぼろげながら考えられていて、ただ、それが果たして「どのような」ものであって、「どの程度」までの作用であるかは、何の議論もする術がないのである。

それに関連してもう1つ、言語学者があまり深く語ってこなかった、というよりも正確には、理論的に深入りしようがなかった、いわば公理のようなものがあって、それは、「すべて言語は同じ程度に複雑である」というものである(もちろん他にもあるけど、本書で扱うのはこれだけ)。ある言語がある言語より難しい、というのは、ただの神話なのである。これは、言語学では申し合わせたようにあまねく受け入れられていて、この大前提を侵すことは、いわばタブーとされている。反論らしい反論もできないから、タブーと言うより、触れる必要がなかったのであるが。

ただし、言語の難しさを数値化することは不可能である。だから、すべての言語が同程度の複雑さを備えているという前提は、あくまで、良く言えば、そうであるはずだという経験的な信念、悪く言えば、希望的観測に過ぎない。

とりあえず、言語学では一般に、ある2人の母語が違ったとしても、その2人の見える世界はまったく同じで、思考のしかたも変わらない、もしくは表面的なものにすぎないとされている。ところが本書は、「言語が違えば、世界も違って見える」と、堂々と銘打っちゃっているのである。

筆者のドイッチャーは、今述べた3つの問題に、果敢にも挑戦した。つまり、一般の言語学ではちょっと冒険的で、ところによっては異端な主張をしたということになる。彼の明言するところでは、言語は思考にいくらか影響するし、文化は言語の形をけっこう変えるし、言語の複雑さなど均一ではないのである。

彼が例として挙げるのは、まず色。色名の付け方には、それぞれの文化の自由がかなり認められている。たとえば日本の「アオ」は、伝統的には緑あたりも含んだ。そして方向感覚の問題。「右」と「左」は絶対的な空間認知なのだろうか。左右の言葉を持たない人がいるとしたら、その人の空間認知は違うのだろうか。そして、ヨーロッパ言語などに見られる文法的性(ジェンダー)の問題。ある名詞(たとえばスプーン)が男性名詞か女性名詞かによって、スプーンに対する印象は違ってくるのだろうか・・・。

「原始的な言語は存在しない」というのは疑いの余地なく真ではあるが、それが「すべての言語は同程度に複雑である」という結論の十分条件ではないことは、初歩の論理学を知っていれば確かに分かる(129-130ページ)。

ドイッチャーの扱う例は言語活動のごくごく一部なので、あまり包括的な主張はできない。しかし、本書がここ数十年の言語学に対する挑戦であることに違いはない。

言語学を専門としない人にも読めるよう書かれているが、同じく一般向けだったD・エヴェレットの『ピダハン』に似て、言語学の主流でない微妙なトピックを扱っている。(Amazonでの評価がとても高いからといって、言語学界でも評判がいいとは限らない・・・。)私は、「鵜呑みはしない鵜呑みはしない・・・」と心しながら読んでいたが、筆者の論理展開にはだいたい同意できる。

蛇足だが、読売新聞のこの書評にあるように、ドイッチャーはチョムスキーの「『普遍文法』が幻想である」とまでは言っていない。

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