科学者は哲学を語るべきか

私は、変なところが気になってしまっているのかもしれない。この本を読み始めると、この思いは一気に強まりました。

私は、文学作品を無意識的に欲するような人ではありませんし、まして文学に対する感受性が強いわけでもありません。

しかし、どうしても、私は、本に書かれた言葉の、文法的正しさ、接続詞、文の長さ、論理性など、もっと低次元な、けれどもとても重要な要素にどうも敏感に反応してしまうのです。

目的語が無いと(または補える語が見つからないと)、「何を?」って突っ込まずはいられませんし、一文が長いものになると、3回は読んで主部と述部の対応を分析し始めますし、そもそも一文が長い時点で嫌になるし…、その上接続詞の使い方が間違っていると、もうだめ。私の脳の不快指数は急上昇します。

こんな感じで本に突っ込みを入れたり、分析をしているので、読む速さはますます遅くなります。そんな自分自身にいらだちを覚えることもあります。

さて、今回読んだ本はいかがでしょうか。

われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか (ハヤカワ新書juice) [新書] / 帯刀益夫 (著); 早川書房 (刊)



上のような私の主観に基づいて、本書を箇条書きで説明すると、

・まず最大の難点として、一文が私の経験したことのない長さを誇っています。
新書ですが、4行以上にわたる文が、私の感覚では見開きに1つ以上ある気がします。読めばお分かり頂けると思いますが、4行は結構疲れます。たまに5、6行あったりします。

・大きな文法ミスが時々あります。
例えば、目的語が見当たらない、受け身にするところがされていない、助詞や接続詞の使い方が間違っている、などです。まれでしたが、主部が2つあることもありました。このくらいになると、誤植ではないかと思うくらいで、本当に混乱させられます。

・また、同じことを繰り返し言っているのでは? という感を受けます。

・本書の目的上やむをえない部分はあるものの、小見出しを多く設けて1節を短くした結果、話題が転々と変わって論理の整合性が低くなってしまっています。

などです。一般人の分際で生意気なことを書いてしまっていますが、私の愚痴の備忘録みたいなものだと受けとめて下されば幸いです。

閑話休題。今度は普通に本書の紹介をいたしましょう。

本のタイトルは、ゴーガンの晩年の作品のタイトルそのままで、いかにも哲学書然としていますが、サブタイトルが「生物としての人間の歴史」。筆者は生物学者でして、本書の立場はあくまで科学です。

科学の細分化により、その包括的な理解がほぼ不可能になっていること、そして現在、統合的な人間像の確立が難しくなっていることを嘆いた筆者は、ゴーガンの問いに触発されて、人間の起源から未来までを生物学的に考察します。つまり筆者は、生物学全体の研究成果を参照しながら、人間の全歴史を俯瞰するという、とてつもなく広い領域と時間を扱う事業を行ったのです。

本書のページ数は通常の新書の2倍近いですが、逆によくこれだけにまとまったなとも感じます。とは言っても、内容の大半は筆者の専門である遺伝子に関係しています。農業も感染症も脳も言語もネアンデルタール人も!、すべて遺伝子で解明してゆきます。言語遺伝子の発見は、私にとっては大発見です。

本書は、書く側も読む側も、きっと大変に違いない大作です。

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