「書き初めコンクール」の入賞作品は2つの点で「異常」である

昨日、1月6日付の読売新聞朝刊に、小中高校生の参加する「読売書き初めコンクール」の入賞作品が載っていた。このコンクールは毎年正月の風物詩だが、私の記憶の限りでは、特に小中学生の入賞作に、以前からある特殊な共通点がある。

それは1)文字が紙面いっぱいに書かれている、2)応募者は応募に至るまで、数百枚という数を書いている、という点だ。

これらは、伝統的な書作には見られない特徴である。これは何も読売のコンクールに限ったことではなく、およそ日本の小中学生の書き初めに普通に見られる。

1)書において、余白と文字のバランスは極めて重要である。余白がなければ、美しい書は生まれない、と言って差し支えない。字が紙の端まで書かれていると、窮屈で、さらに文字が四方に拡散するような印象を与えてしまう。つまり、字を上手に書くことだけでなく、適切な余白を取ることも、いい作品を作るのには必要である。

日本の書き初めコンクールでは、余白の重要性は往々にして無視される。子供は、縮こまっていないで元気いっぱいに書くべきだというオトナの意識が、どこかしらあるのかもしれない。そういう精神を責めるつもりは毛頭ないが、結果として、知らず知らずのうちに大人が子供の審美眼を改変してしまっているとも言えなくもない。

対象的に、中国の書法教育においては余白の重要性が強調される。手元にある大学生用の書法の教科書には、「布白则是翰墨尘点的反衬,构成整幅作品的有机组成部分」とある。「余白は書かれた部分と表裏一体をなす、整った作品をつくる有機的な部分である」というような意味である。

下の写真は、私が西安で撮ったものである。大人が書いたものなので、単純な比較はできないが、余白のとり方は典型的な中国式である。(ただし余白をとりすぎて、かえって間が抜けた作品も中国には少なくないが。)

参考例1 中国・西安の書院門街にて

参考例2 同じく書院門街での露店

2)何百枚も書くのはいいが、それは練習に留めるべきで、作品として公に発表するのには、やや抵抗がある。というのも、何百枚も書かないと良い作が書けないというのは、果たしてそれを実力と言っていいのか、疑問だからである。何百枚も書いて、「運良く」完璧な作品が書けたのではないか、と私は思ってしまうのである。

これは私の経験からも言える。「ここが上手く書けなかったから、次はそこを上手に書こう」と思って次の1枚を書くと、そこは良くなるのだが、今度は別の箇所が気に入らない・・・ということはしょっちゅうで、何十枚か書くと、「これはなかなかいいかな」というものが出来上がる。しかし、それは自分ではコントロールしがたいもので、違う機会に同じ枚数を書けば同じクオリティーのものが仕上がる、という保証は全くない。しかし上達するにつれて、50枚が20枚、10枚、5枚と、書き上げる枚数は、確実に減っていく。

何百枚目かに、偶然、どこも気に入らない箇所のない完璧な作品が書けたからといって、それは実力なのだろうか。どの入賞作も、一般的な小中学生に不釣り合いなほど著しく均整が取れているが。

公にすることのない、臨書などを何百枚とするのは良いことだ。それは自分のトレーニングだからである。しかし、自分のトレーニングの成果を見せる作品というのは、数回で書かなければ正直でないと思うのだ。例えて言えば、ルービックキューブである。キューバーと呼ばれるルービックキューブの達人は、ふだんから何百回と練習をしているが、そこで偶然、世界記録を叩き出してしまっても、公式記録にはならない。記録を取るときには、方式によるがたった1回、ないしは5回しか挑戦できないのである。

邵庆祥,潘军主編(2014)『大学书法教程』高等教育出版社 158頁

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