脱「筆文字ロゴ」論

久しぶりに行った(古書店でない)普通の書店で大発見をした。

手にとってまず適当に開けたページが芹沢銈介の作品群! これはもしや、と思ったら案の定、つい先月感動とともに紹介した綿貫宏介も載ってる。ハイ、このふたりが同一の本に載ってる時点で第一級資料決定。

さらに私の好きな書家のひとり、中村不折も載ってるし。そればかりかこの本、沢木耕太郎の『深夜特急』の表紙とか、小布施町の桜井甘精堂とか私もちょう知ってるロゴを手掛けた方々も出てくる。



しかし私が感激したのは掲載の面々だけではない。

この本の紹介するあまたの「描き文字」は、毛筆の書でも、規格化されたタイポグラフィでもない。書道の本も、タイポグラフィの本もゴマンとあれど、こういう「人の手によるアナログなロゴデザイン」をまとめた本というのは丸ッきしないのだ。少なくとも私は見たことがなかった。だから、こんな素晴らしい、写真豊富、装丁瀟洒な、ニッチな本を出してくれた著者と監修者に感謝感激なのである。こういう本を求めていたぞ。

さらに、もうひとつは、手書きによるロゴデザインは「描き文字」と言うのか!というちょっとした知的感動である。この「描き文字」に相当すると思われるものに、欧米に「(hand) lettering」というものがあって、私は日本でもそれがもっと普及してほしいと常日ごろ願っているのだが、その訳語に考えあぐねていた。それまではそのままカタカナの「レタリング」とか「ハンド・レタリング」くらいしか思い浮かばず、しかも「レタリング」だと、日本語では単に「文字の装飾」という意味に捉えられがちなのだ。そこへ来て「描き文字」なる言葉がきた。

ただ、「描き文字」はマンガの効果音の文字を指すのにも使われるようだし、「(hand) lettering」とまったく同じものだと言うこともできないだろう。それぞれの使われる範疇は、少し違っていそうである。それに、はたして「描き文字」なる言葉がこの本でのみ使われているだけなのか、あるいは業界で一般に使われる用語なのかは、よく調べていないのではっきりしない。(後者に思えるけども。)

個人的には、一般名詞として「描き文字」というやや安直な言葉を使うのは、あまり好きになれないので、さしあたって、「(hand) lettering」は「レタリング」と訳すことにしておく。

関野香雲による扁額「辨天楼」と、暖簾「きそば」
木材にノミで彫りつけたり、布に染めたりするのもデフォルメの一手段。文字は肉筆と表情を変える。
2014年4月撮影

私はいま、「レタリング」がもっと日本で普及してほしいと言った。アルファベットはもちろん、日本の文字でもである。それというのも、レタリングが多くの「毛筆による」ロゴを「救う」と信じるからである。

全く詳しくないので威張ったことは言えないが、私はレタリングを、「ロゴ、コピー、文言などを、オリジナルの書体(多くの場合筆記体)でデザインすること」くらいに思っている。海外のレタリング・アーティストとして、私の知るところではGed PalmerSeb Lesterといった人がいる。「デザイン」という言葉は重要で、ワープロで打ち込んだり、筆やペンで達筆にしたためるのとは原則として違う。

昨今書店では、チョークアートやカリグラフィーという言葉を目にすることが多くなってきたが、おそらくそれらは、レタリングとは違う。広義には、そのどちらも範疇に含むのかも分からないが、チョークアートの最大の特徴である一過性はレタリングと相容れないだろうし、カリグラフィー(またはペンマンシップ)は、基本的に鑑賞物であるから企業のロゴのような公共性は持たせにくいだろう。

要するにレタリングは、活字と筆書(ひっしょ)の中間なのである。活字すなわち規格化されたタイプフェイスは、まとまった文章には向いているが、ロゴなど短い文言に使うには画一的で面白みがない。一方で筆書は、硬筆と毛筆を問わず、即興で書かれ読みにくい上、何より、しばしば少しくらい下手でもまかり通ってしまうのである

その点レタリングは、オリジナルの書体だから活字のような画一性もない。筆記体の場合は手書きの温かみが温存される。それでいて、念入りにデザインされているからフリーハンドの即興性は後退する。活字と筆書のいいとこ取りをしている、と言ってもいい。

日本では、筆書または「筆文字」のロゴがあらゆるところで見られる。毛筆の文字は、書いてそのままでは、「生々しすぎる」。生々しくて、そのままスキャンするだけではロゴなどの公共物として堪え得ない。どういうことかというと、筆書特有の墨の濃淡、毛先が紙に触れてできるわずかな線、にじみやかすれといった、偶然や作者の作風に由来するものが丸見えで、情報量が多すぎるのだ。

毛筆文字のレタリングは、余分なものを削ぎ落とす「捨象のプロセス」と考える。墨書したものを、いったん木や石に彫ったり、トレースしたり、さらに多少の修正を加えたりすることで、文字は捨象される。情報量は減少し、可読性が増大する。個人性は減少し、公共性が増大する。例えるならば、精細な写真をイラストレーションや水彩画や版画に落とし込むようなものだ。柳宗悦も「書論」という文章で似た趣旨のことを書いている。

個人が間接に現れる場合、書は屡々美しくされる。例へば肉筆を版木に附すと書が蘇る場合がある。版の為に静められ個人の傷がぢかに出ないからである。或はこれを石に刻むとしよう。毛筆はとかく個人をなまで出すが、一度鑿を通るとそれがうすめられて了ふ。(98頁 旧漢字は適宜直してある)
公に用ひる文字、それ故社会的意味を持つ文字の凡ては必然に型を求める。型に入らずば用ひにくい。型はものゝ工藝化である。何も版木や活字の如きものばかりではない。肉筆でも数多く記す時、文字は必ず一定の形式に入り、必然に模様化を受ける。(102頁 旧漢字は適宜直してある)

一つの例として、日本酒の「髭文字」が挙げられよう。(「髭文字」でグーグル画像検索)あれは筆書に由来するレタリングの一種だ。いわゆる「髭」の部分は墨のカスレだが、大胆に抽象化・デフォルメされている。柳の言葉を借りれば、「一定の形式に入」っている。文字全体はもちろんベタ黒だ。そのため可読性は高く、かつ見ただけで日本酒だと分かるオリジナリティも併せ持っている。

しかしスキャン技術が発達した現在では、書いたままの生の筆書をデザインに組み込むことが容易になった。日本酒も肉筆のロゴが今となっては大半である。

東洋の書に代表される「卒意の美」はまったく否定しない。それどころか愛している。文字をフリーハンドで書くことの潔さ、結果の予想不可能性から生じる造形の面白みは、私もじゅうぶん理解している。邪推かも知れないが、「二度書き」が禁止されている習字・書道に触れて育ってきた私たち日本人は、一度で書き切ることを良しとする傾向があるのかも分からない。一度書いたものに手を加えるということに、罪悪感とは言わないまでも、抵抗を覚える人が多いと思うがいかがだろうか。

しかし考えてみれば、日本酒ラベルのような公共性の高いものを、(もちろん何十回と練習はするだろうが)一息に書くなど、凄まじい実力がないとできるものではない。「二度書き」を奨励しているわけではなくて、書いた文字をベースに、紙と鉛筆でデザインするなり、コンピュータに取り込んでデジタル処理するなりした方が、過ちが少ないと思うのである。

繰り返すように、毛筆によるロゴは、肉筆を離れてデフォルメすることで、優れたデザインになることが少なくない。もちろんデザインには相応の知識や勘が必要だが、個人の字は、レタリングによって公のものになる。これはロゴに限らず、柳の言う「公に用ひる文字」一般に言える真理だと信じる。中村不折や、芹沢銈介、綿貫宏介などの優れた先人たちを見るにつけ、ますますそう思う。

参考
柳宗悦(1941)『茶と美』牧野書店

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