2015年2月24日火曜日

阿辻哲次『漢字学―『説文解字』の世界』

先週の『中国漢字紀行』に続き、阿辻哲次の『漢字学―『説文解字』の世界』を読んだ。

阿辻哲次(1985)『漢字学―『説文解字』の世界』東海大学出版会
(リンク先は初版だが、表紙画像は、初版のものがなかったので新装版のもの)


一般向けだった『中国漢字紀行』とは打って変わって、本書は相当に興味のある人向けに書かれた本だ。本書は、漢字研究における最重要テキストである2つの書物を解説する。一つは西暦100年、許慎によって編まれた字書『説文解字』、もう一つは清朝の1815年、段玉裁によって完成されたその注釈書『説文解字注』である。

『説文解字』という字書は小篆という書体で親字を表示しているため、書道をやっている人なら、書道字典などでその名を目にしたことがあるだろう。漢文の勉強などで漢和辞典をよく引く人にとっても、あるいは見覚えのある書名かもしれない。しかし、古代文字学を専門的に研究でもしていない限り、『説文解字』という書物の内容を知る人は少ない。私もその一人だった。

簡潔な言葉で記されたその『説文解字』を、段玉裁が詳細に注釈した『説文解字注』は、なおさら知られていない。しかしこの『説文解字注』は、著者が「完成後二百年近くたった今でも『説文解字』研究の最高峰とたたえられているものである」(180頁)と言うほどに重要な書物である。

かなり込み入った内容が続く本書だったが、著者の文章は決して理解が難しいほど難解なものではなく、中国文献学の深みを感じることができる。また、それなしでは漢字研究がままならないという『説文解字注』を完成させた学者、段玉裁の精確かつ緻密な考証には圧倒される。

そういえば、2年前に同じタイプの人の伝記を読んだ。私はこういう努力する人間が好きなのだろうか。分野は違えど、生涯をかけて大著をまとめ上げるという点では、「オックスフォード英語大辞典」を編纂したジェイムズ・マレーを彷彿とさせる。

ちなみに段玉裁は中国語の古代音韻の研究にも大きな寄与をしている。個人的に中国語の歴史音韻論にはかねて興味はあったが、大学で欧米流の音韻論を学んだ者として、中国の古音学を勉強してみたいと思った。

備忘録として、本書の目次を挙げておく。

第一部
序論=漢字と中国二千年の文字学=
『説文解字』前史=実用的文字学の時代=
『説文解字』の背景=許慎とその時代=
『説文解字』=文字の体系化とその手法=
文字解釈の基盤=小篆=
文字解釈の基盤=六書=
『説文解字』のお構造=文字のコスモロジー=

第二部
段玉裁『説文解字注』論
『説文解字注』の背景=段玉裁とその時代=
『説文解字注』と『汲古閣説文訂』=『説文解字注』への道程=
『説文解字注』の方法
『説文解字注』を読むために

刻字 「無之以為用」

友人に(ずっと前に)頼まれて、「無用之用」として知られる『老子』の有名な一節を書き、刻った。久しぶりの刻字だ。


墨書したものの籠字(輪郭を写しとったもの)を板に張る。

刻り終えたら紙を剥がして着色。色は初めての緑青。

用 為 以 之 無
45×18cm

「無の以って用を為す」と読む。『老子』の「有之以為利、無之以為用」より。この書体は篆書(てんしょ)と言う。

板はストランドボードという工業製品の建材を利用している。刻字はふつうサクラやカツラ、ケヤキなど、銘木の板にするのが一般的なので、こういう安くて柔らかい板は言うまでもなく刻字として邪道である。けれでもあえてこういう板に刻ることで、作品の持つ雰囲気も意味合いも変わる。

――――
参考・・・今までの刻字

2012年
へのへのもへじ
ノールゴード

2013年
華道部
食食食食
人間の文明

2015年2月18日水曜日

阿辻哲次『中国漢字紀行』

阿辻哲次の『中国漢字紀行』を読んだ。普通の読書録としてブログを書いたのは、去年の11月半ば以来、実に3ヶ月ぶりだ。この間、卒論やら何やらがあったものだから。

阿辻哲次(1998)『中国漢字紀行』大修館書店


著者の阿辻哲次は、本書執筆時点では京都大学助教授とあるが、調べてみると現在は京大大学院教授である。最近の漢字研究の世界では、有名な方である。(ちなみに私が阿辻哲次を知ったのは、高校2年か3年のときに、NHKの番組に出ていたのを見たのが最初だ。)

本書では馬王堆帛書(まおうたいはくしょ)、石鼓文、甲骨文字、そして『説文解字注』と、中国古代文字学において極めて重要な4つ遺跡や文物をめぐって、著者の詳しい解説と、それらを自ら見に行った時の体験が、随想という形で綴られる。

考古学や文献学的な位置付けは置いておいて、書体の歴史という点でこれら4つの章立てを見ると、最も古いのは甲骨文字で、漢字の最初期の形態である。次に古いのが秦時代のものと推定される石鼓文で、篆書の完成期に近い。その次が、『説文解字注』の底本である『説文解字』(西暦100年)のまとめた小篆という書体。最も新しいのは、篆書から派生した馬王堆帛書の書体である(ただしこの遺跡は時代的には紀元前2世紀に遡る)。

本書は学術書ではなく、また漢字の通史でもない。本書の特長として2点があげられると思う。

まず、大変に読みやすい。本書は「あじあブックス」シリーズの一つとして、一般の読者向けに中国文字史に関心を持ってもらおうと書かれた本である。あまり専門的な話に突っ込んでいないというのもあるし、著者の主観で書かれている部分が多く、退屈にならずにテンポよく読み進めることができる。文章もこなれていて、ストンと理解できるクセのない文体だと感じた。

ここ1年くらい、言語学の学術書や書道の解説書ばかり読んできて、文学らしい文学を読んでいなかった私には久しぶりの感覚だった。有名な文学を読んだわけでもないのに大袈裟な、とお思いかもしれないが、それでも、硬くて冷たい岩石ばかりにかじりついているうちに、温かく滋味豊かな粥の口当たりを忘れていたものらしい。

本書の特長としてもう1点あると思うのは、著者の学問に対する丹念な姿勢だ。研究者としては当たり前のことだけれども、遺跡や文物を実際に見に中国には何度も足を運び、伝統的な常識に対しては無批判にやり過ごしたりはせずに考証を重ねる。

例えば、王懿栄(いえい)と劉鶚によるあまりに有名な甲骨文字発見のエピソードは、実はでっち上げであるという(84~86頁)。これは、最近の、しかもその多くは中国の、研究成果を全く知らない私たちには、なかなか知ることのできない知識である上、自力で調べることも難しいから、伝統的なエピソードを事実だと思って信じてしまう。また、古代中国の青銅器の鋳造や土偶の制作にあたって、燃料のために天文学的な量の伐採がなされたことが、現在までの中国の植生に影響を与えているという、これまでは触れられてこなかった視点(104~105頁)も、引用をしつつ紹介されており、面白い。

本書は歴史や文字文化・書道に関心がある人だけではなく、漢字なんてつまらない、古代中国文化なんて古臭い、と思っている向きの方々におすすめな本である。古代文字学、中国考古学のドラマを感じることができる。

2015年2月2日月曜日

僕が卒論を書くのに使った便利なオンラインサービス(主に言語学)

音韻論の分野の卒業論文を英語で書いた(日本語のアクセントについて。本日無事提出した)。ひとつの締めくくりとして、卒論執筆の際にお世話になったオンラインサービスやソフトを紹介しておく。誰かの役に立つことを願って。


音声学・音韻論

Type IPA Phonetic Symbols
http://ipa.typeit.org/
国際音声記号(IPA)を手軽に打てる。MicrosoftWordの特殊文字入力でも、「ː」や「∅」って何かと探しにくい。

Praat
http://www.fon.hum.uva.nl/praat/
音声的分析をするなら、言わずと知れたこれ。

hellog~英語史ブログ
http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~rhotta/course/2009a/hellog/index.html
英語史が主たる内容だが、気になる言語学のキーワードを検索すると大抵解説してある上、参考文献も書いてある。使い方はあなた次第。

Prince & Smolensky. 1993. Optimality Theory: Constraint Interaction in Generative Grammar.
http://roa.rutgers.edu/files/537-0802/537-0802-PRINCE-0-0.PDF
最適性理論を使う方に朗報! この理論の嚆矢、Prince & Smolenskyの1993年の著作が、なんとネットで読める! ラトガーズ大学のアーカイブで公開されているのだ。


一般

Google Scholar
https://scholar.google.co.jp/
先行研究探しの一等最初はここから始まった。どの文献に当たればよいか、またはどんな文献があるのか見当がつかないときはここで検索。たとえ本文は見られなくても、書誌情報だけ押さえれば図書館で探せる。

The Free Dictionary
http://www.thefreedictionary.com/
英英辞典。類語辞典。

英辞郎 on the WEB
http://www.alc.co.jp/
英和・和英辞典。例文検索。

Smallpdf.com
http://smallpdf.com/
これは最強。


関連記事:2014年12月24日「韻律音韻論のツリーを描くのは難しい メモ