明治や江戸の言葉で会話したいーー坪内逍遥

古典文学はすばらしいですか?

ここで素晴らしいかと言うのは、文学としての表現技巧や心理、情景描写、構成のしかたのレベルが高度かということです。

古典文学は本当に、現代から見てすばらしいのでしょうか。

例えば、和歌の心理描写が雄大だとか、源氏物語の心理描写が複雑だ、構成がうまいだとか、はたまた、アリストファネスが何たらで素晴らしいとか…。

古典をすばらしいというとき、「その当時にしては」という前提が実は無意識にあると思います。なぜなら、古典文学の世界は現代の感覚からすれば文化が全然違いますし、表現も構成も現代に比べれば未熟だからです。

つまり、現代の人が古典を読むときは、必ず当時相応の表現や文化や知識のレベルを想定していて、それに自分を適応させて、そしてその時代相応の評価を下しているのです。

逆に言えば、その想定があるからこそ古典を有意義に読めるのですし、「すばらしい」と、現代から見ればいくらか「褒めすぎ」な評価もされるわけです。


しかし、坪内逍遥は違いました。

想定の範囲外でした。もちろん、いい意味で。

これほどまでに古典(ほんとは古典じゃなくて近代小説だけど。)が自分の予想を裏切ったのは、古今東西いくつか読んだ中でもありませんでした。この場合、坪内逍遥はすばらしい、と「褒めすぎ」ではなく妥当な評価として下せます。

当世書生気質 (岩波文庫)
作者: 坪内 逍遙
出版社/メーカー: 岩波書店
発売日: 2006/04
メディア: 文庫





坪内逍遙 (明治の文学)
作者: 坪内 逍遙
出版社/メーカー: 筑摩書房
発売日: 2002/09
メディア: 単行本







「当世書生気質(かたぎ)」です。「昨今の書生さんらのありさま」といったところでしょうか。坪内逍遙といったら評論「小説真髄」が有名ですが、「当世書生気質」は小説です。

私は下の全集の方で読みました。

第一に、書生の発する言葉が面白い!! このセリフの面白さがこれを読もうと思ったきっかけでもあります。

例えば書生である宮賀と須川の会話。

宮「僕ぁね、僕はいつか話した、ブック(書物)を買いに、丸屋までいって、それから下谷の叔父のところへまわり、今帰るところだが、まだ門限は大丈夫かねぇ」
須「我輩のウヲツチ(時計)ではまだTen minutes(十分)位あるから、急いて行きよったら大丈夫じゃろう」
宮「それじゃあ一所にゆこう」
須「をい君、ちょっとそのブックを見せんか。なんぼしたか」
宮 ~略~
須「じつにこれはuseful(有用)じゃ。君これから我輩にも引かしたまえ。ヒストリイ(歴史)を読んだり、ヒストリカルエッセイ(史論)を草したる時には、これが頗る益をなすぞぅ」
(一部句読点、漢字表記、かな表記など変えてあります。)

現代人でもしない英語の使い回しです!!(たまにドイツ語も)ルー大柴も顔負けといったところです。日本に英語が入ってきて間もない頃ですから、当時それなりの知識人である書生は、英語を使いたがったのでしょう。

坪内逍遙は口語文学の開拓者ですし、特に会話文はほぼ現代語ですので、近代小説ですね。

それにしても驚いたのは構成の複雑さ!

現代に通ずるかは別として、現代の小説では見たことのない構成です。「当世書生気質」は第壱回から第弐拾回までの20回構成ですが、どれも違う人、違う時で話は進んでいて、しかもそれらはすべてどこかの回と連続した時間なのです。たとえばこの人は、次に別のこの回で○○している。といったふうに。

ですから、1回読んだだけでは全員の行動を把握するのは難しくて、メモをとりながらパズルを解くようにもう1回読むと、絶対面白いと思います。私は図書館で借りたので、1回しか読めませんでしたが。

そしてどの回も最後へとまとめられてゆき、最後に急展開を見せます! もしこのどんでん返しが無かったら、ここに、この小説は愉快で無茶な書生たちの日常と、主人公の悩める心を描いた、本に過ぎなかったでしょう。

「当世書生気質」は、最後に読者をひきつける力を持っていました。

この小説が近代小説の中に埋もれがちな存在となっているのは、なぜなのでしょう。本書がまだいくらか文語の影響を受けているからなのでしょうか。それとも内容がおげれつだからなのでしょうか。まあ内容からすれば、大衆文学で、評価するには確かに内容が薄いでしょうね。

しかしともかく、坪内逍遙を完全に侮っていました。予想を上回ったために、この本に出会った喜びも、この本を読み終えた喜びも、ことさら大きいものでした。(ノ´∀`)ノ

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