湯浅八郎『民芸の心』

7月に入って、心揺さぶる文章に立て続けに3つ出会った。一つずつ手短かに紹介させて頂きたい。

読み終わった順に、一つは民藝、一つは宮本常一、もう一つは篆刻(てんこく)である。3つ並べてみて、自分でも意味の分からない(そして皆さんがおそらく思われるように、古臭い)ラインナップだと思うが、本質のメッセージはいずれも多かれ少なかれ普遍性を持っていたような気がするので、どうか笑わないでいただきたいのである。

まずは、湯浅八郎述・田中文雄編(1978)『民芸の心』だ。

これは、湯浅八郎、ICU初代学長が1978年に行った特別講義「民芸の心」の講義録である。ICU生でも特に最近の人は多くが知らないと思うが、湯浅元学長は民藝の一大蒐集家であった。その5200点あまりに及ぶコレクションは、今はキャンパス内にひっそりとたたずむあの湯浅八郎記念館に収められている。この講義は、湯浅元学長の米寿の年、1978年の5月に、6日間だけ行われた。

民藝というと、骨董趣味といっしょくたに捉えられてしまいがちだが、ウン百万円の壷とか、ウン百年前の書画軸とかいうのと民藝とを、まぜこぜにしてはいけない。前者は、個人の芸術家が、美しさを目的として創作したもので、一点物で、庶民には手が届かず、実用からも遠い。対して民藝は、無名の工人が多量に作った、一般民衆の普段使いの品々のことである。焼き物、着物、漆器、木工、竹工などなど、そもそも美醜の意識なんぞ微塵もなかったものばかりである。

民藝は、大正末から昭和初期にかかて柳宗悦らにより提案され、理論付けがなされた。(柳は「民芸」ではなく「民藝」の字を使ったので、ここではそれに倣っている。)日用の器物に美を見出した「用と美」の思想は、それまでの美術とは全く別個の美の世界である。

その民藝の美は、物がなければ始まらない。民藝はその性質上、具体的な物を見て、触れて、使って、初めてその美しさや、手仕事の確かさに感動できるのであり、それを残していこうという動きにつながる。民藝はあくまで有形物にこだわるのである。

そこへ来て、愛とか平和とか、哲学とか宗教とか、形のないものこそ正道にして第一義であり、対して具体物は、物欲を掻き立てる、邪道にして第二義的なり、というヒエラルキーがあるものだから、私は、そこが民藝運動の高尚なる美学たりえない所以なのだと思う。

しかし、湯浅元学長の「民芸の心」が新しく、そして魅力的なのは、民藝を、単なる物の世界に留めるのではなく、そこからICU生の、ひいては人間としての、あらまほしき精神を汲み取り、聞き手に考えを促しているところなのである。

なぜ私がこの民芸の講座を「民芸の講義」とせず「民芸の心」としたかというと、民芸という物の世界と、これを受け止める心の世界のつながりにおいて、私達お互いが人間らしい成長をしたいと願ったからです。さらに一歩進んで人間らしく進んで行きたいという、本当の意味で、ICUに学ぶ意味をもう一度皆さんに考えて頂きたい。そういう念願をもってこの講座をやろうとしているわけなんです。(pp. 12-13)

民藝に興味がない方でも、特にICU生は、第1日目だけは是非読んで頂きたい。第1日目は民藝に関することはほとんど出て来ず、ICUの建学の理念、湯浅元学長のアメリカ留学の経験やICU学長になるまでの経緯、そしてICU生へのメッセージが詰まっている。ICUで学ぶとは一体どういうことか、なんとなくだけれども、反省させられた。

そして何より、文章に心に染み渡った。前々回の記事で、雄弁な日本人は少ないと書いたばかりだけれども、この湯浅元学長の講義は、ちょっと考えられないほどに感動的で濃厚で緻密である。もちろん書き起こしの段階でいくらかの編集はあったに違いないが、これはもはや話し言葉ではなく、一個の著作である。その場で講義を聞けなかったことが何よりも残念だと、読みながら何度思ったことか。

本書は市販されていないが、湯浅八郎記念館で買うこともできる。本文66ページ。

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