「55個の母音を持つ言語」というギネス記録は間違いである
私の手元にある1980年度版の「ギネスブック」に、「最も多くの母音を持つ言語」として、ベトナムのセダン語が挙げられている。信じがたきかな、55個もの母音を持つという。
しかし、これは明らかな間違いである。セダン語を記述した論文にあたると、セダン語の母音は7つしかないからである。英語には、母音が10個くらいあるから、英語より少ないのである。
以上。
と言いたいところだが、学生時代の暇に任せて、もう少し詳しいことを書いたので、以下に続く。
その記録は以下のようである。「最も多くの母音を持つ言語」として、
とある。記述は以上で、出典はない。さて、この記録を信じていいのか。
日本語の母音は、「アイウエオ」の5つである。英語の母音はもっと多くて、アメリカの一般的な英語だと、10個くらいある。
世界の言語を見渡すと、アラビア語や沖縄の一部の方言のように3つの母音しか持たない言語や、ドイツ語、フランス語、ヒンドゥー語のように10以上の母音を持つ言語もある。しかし一般に、世界の言語を見渡したとき、日本語、中国語のように5~7個の母音を持つ言語が大半である。母音が20を超える言語を私は知らず、55個となると、凄まじい数である。
母音というものは、基本的に、舌の上下前後の位置や、唇のすぼめ具合を調整することによって発声される。つまり母音とは、いろいろなバリエーションのあり得る子音と違って、口の中で、舌の位置や唇の形を絶妙に変えることによって生み出される、デリケートな音である。であるから、本当に55個も母音を持つ言語があったとしたら、それを発声する口と、それを聞き分ける耳に、とてつもない精密さが要求されるということだ。果たしてそんな緻密すぎることができるのか。
そんな言語学の知識を抜きにしても、「母音が55個」なんていうのは、直感的に考えておかしい。
あの有名な「ギネス世界記録」に間違いが?と思うかもしれない。けれども、ギネス・ワールド・レコーズ社の担当者が十分な言語学の知識を持ち合わせていたとは限らないのである。担当者の見当違いということはありえない話ではない。
真偽を確かめるべく、調査をしてみたところ(2年ほど前のことです)、セダン語を記述した文献として、次の2冊が見つかった。
Smith, K. D. 1982. Phonology and Syntax of Sedang, A Vietnamese Mon-Khmer Language (Doctoral dissertation, University of Pennsylvania, 1975).
Smith, K. D. 1979. Sedang Grammar: Phonological and Syntactic Structure. Canberra: Australian National University.
セダン語の研究ではKenneth Smith(以下、スミス)という人が第一人者であるようだ。1979年の文献は、博士論文である1975年の文献の再版と思われ、2冊の内容は全く同じである。よって、以下は新しい方の文献に基づいている。
以下、厳密さを損ねないため、必要最小限の専門用語を使っているが、難しいと感じれば、読み飛ばしても構わない。結論から言うと、冒頭で申し上げたようにセダン語は平々凡々の7母音体系である。
スミス(1979:31-44頁)によると、セダン語の単純母音は、/i, e, ɛ, a, ɔ, o, u/ の7つである。下が母音表である。
セダン語の母音
はい、終わり。
セダン語は、何の変哲もない母音体系である。母音が7つというのは、世界の言語の中でもごく標準的な数である。この母音体系は、イタリア語とさして変わらない。期待していただけに、拍子抜けする。
ならば、一体どうして、55母音という突拍子もない数字が出てきたのか、知りたくなってくる。
私の推測だが、1)「緊張音」、「複合母音」、「鼻母音」という、セダン語の複雑な副次的母音体系を間違って理解した、2)子音を間違えて母音の数に入れてしまった、という2つの可能性がある。
(2)は手のつけようのない凡ミスだが、(1)について、もう少し詳しく言う。セダン語を含む周辺のいくつかの東南アジア諸語の母音には、lax(弛緩)とtense(緊張)という区別があるそうだ。つまり、上に挙げた7つの単純母音のそれぞれに、弛緩音と緊張音の区別がある。弛緩音がいわゆる普通の発声の母音で、緊張音とは一般に「きしみ音(creaky voice)」と呼ばれる音である。日本語にはない音だが、「あ゛ー」や「う゛ー」と書かれる低いうなり声を想像すればいい。(きしみ音の音声(ページ下部)と英語の図解。)
加えて、セダン語には9つの複合母音があり、さらに一部の母音には鼻母音がある。仮に、単純母音、緊張音、それらの複合母音、それらの鼻母音を、全て1種類の母音と見なすならば、私の計算では、51個になるのだ。
しかし、これは言語学上の慣習を完全に無視している。言語学において、「母音の数」というのは、原則として単純母音の数を意味するのであり、鼻母音、複合母音、その他特殊な母音は、数のうちに含めない。日本語にも長母音(アーイーウーエーオー)という特殊な母音があるが、それを独立した母音とはみなさないのと同じである。
論文に依拠して、言語学的に真っ当な結論を申し上げると、セダン語は、繰り返すように、7母音しか持たないのである。
参考
ノリス・マクワーター編(1979)『ギネスブック』講談社
しかし、これは明らかな間違いである。セダン語を記述した論文にあたると、セダン語の母音は7つしかないからである。英語には、母音が10個くらいあるから、英語より少ないのである。
以上。
と言いたいところだが、学生時代の暇に任せて、もう少し詳しいことを書いたので、以下に続く。
その記録は以下のようである。「最も多くの母音を持つ言語」として、
最も多くの母音を持つ言語はベトナム中央部のセダン(Sedang)で、55のはっきり区別できる母音を持つ。(144頁)
とある。記述は以上で、出典はない。さて、この記録を信じていいのか。
日本語の母音は、「アイウエオ」の5つである。英語の母音はもっと多くて、アメリカの一般的な英語だと、10個くらいある。
世界の言語を見渡すと、アラビア語や沖縄の一部の方言のように3つの母音しか持たない言語や、ドイツ語、フランス語、ヒンドゥー語のように10以上の母音を持つ言語もある。しかし一般に、世界の言語を見渡したとき、日本語、中国語のように5~7個の母音を持つ言語が大半である。母音が20を超える言語を私は知らず、55個となると、凄まじい数である。
母音というものは、基本的に、舌の上下前後の位置や、唇のすぼめ具合を調整することによって発声される。つまり母音とは、いろいろなバリエーションのあり得る子音と違って、口の中で、舌の位置や唇の形を絶妙に変えることによって生み出される、デリケートな音である。であるから、本当に55個も母音を持つ言語があったとしたら、それを発声する口と、それを聞き分ける耳に、とてつもない精密さが要求されるということだ。果たしてそんな緻密すぎることができるのか。
そんな言語学の知識を抜きにしても、「母音が55個」なんていうのは、直感的に考えておかしい。
あの有名な「ギネス世界記録」に間違いが?と思うかもしれない。けれども、ギネス・ワールド・レコーズ社の担当者が十分な言語学の知識を持ち合わせていたとは限らないのである。担当者の見当違いということはありえない話ではない。
真偽を確かめるべく、調査をしてみたところ(2年ほど前のことです)、セダン語を記述した文献として、次の2冊が見つかった。
Smith, K. D. 1982. Phonology and Syntax of Sedang, A Vietnamese Mon-Khmer Language (Doctoral dissertation, University of Pennsylvania, 1975).
Smith, K. D. 1979. Sedang Grammar: Phonological and Syntactic Structure. Canberra: Australian National University.
スミス(1979)(左)とスミス(1982)の文献 |
セダン語の研究ではKenneth Smith(以下、スミス)という人が第一人者であるようだ。1979年の文献は、博士論文である1975年の文献の再版と思われ、2冊の内容は全く同じである。よって、以下は新しい方の文献に基づいている。
以下、厳密さを損ねないため、必要最小限の専門用語を使っているが、難しいと感じれば、読み飛ばしても構わない。結論から言うと、冒頭で申し上げたようにセダン語は平々凡々の7母音体系である。
i | u | |||
e | o | |||
ɛ | ɔ | |||
a |
はい、終わり。
セダン語は、何の変哲もない母音体系である。母音が7つというのは、世界の言語の中でもごく標準的な数である。この母音体系は、イタリア語とさして変わらない。期待していただけに、拍子抜けする。
ならば、一体どうして、55母音という突拍子もない数字が出てきたのか、知りたくなってくる。
私の推測だが、1)「緊張音」、「複合母音」、「鼻母音」という、セダン語の複雑な副次的母音体系を間違って理解した、2)子音を間違えて母音の数に入れてしまった、という2つの可能性がある。
(2)は手のつけようのない凡ミスだが、(1)について、もう少し詳しく言う。セダン語を含む周辺のいくつかの東南アジア諸語の母音には、lax(弛緩)とtense(緊張)という区別があるそうだ。つまり、上に挙げた7つの単純母音のそれぞれに、弛緩音と緊張音の区別がある。弛緩音がいわゆる普通の発声の母音で、緊張音とは一般に「きしみ音(creaky voice)」と呼ばれる音である。日本語にはない音だが、「あ゛ー」や「う゛ー」と書かれる低いうなり声を想像すればいい。(きしみ音の音声(ページ下部)と英語の図解。)
加えて、セダン語には9つの複合母音があり、さらに一部の母音には鼻母音がある。仮に、単純母音、緊張音、それらの複合母音、それらの鼻母音を、全て1種類の母音と見なすならば、私の計算では、51個になるのだ。
しかし、これは言語学上の慣習を完全に無視している。言語学において、「母音の数」というのは、原則として単純母音の数を意味するのであり、鼻母音、複合母音、その他特殊な母音は、数のうちに含めない。日本語にも長母音(アーイーウーエーオー)という特殊な母音があるが、それを独立した母音とはみなさないのと同じである。
参考
ノリス・マクワーター編(1979)『ギネスブック』講談社
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