2017年1月8日日曜日

「書き初めコンクール」の入賞作品は2つの点で「異常」である

昨日、1月6日付の読売新聞朝刊に、小中高校生の参加する「読売書き初めコンクール」の入賞作品が載っていた。このコンクールは毎年正月の風物詩だが、私の記憶の限りでは、特に小中学生の入賞作に、以前からある特殊な共通点がある。

それは1)文字が紙面いっぱいに書かれている、2)応募者は応募に至るまで、数百枚という数を書いている、という点だ。

これらは、伝統的な書作には見られない特徴である。これは何も読売のコンクールに限ったことではなく、およそ日本の小中学生の書き初めに普通に見られる。

1)書において、余白と文字のバランスは極めて重要である。余白がなければ、美しい書は生まれない、と言って差し支えない。字が紙の端まで書かれていると、窮屈で、さらに文字が四方に拡散するような印象を与えてしまう。つまり、字を上手に書くことだけでなく、適切な余白を取ることも、いい作品を作るのには必要である。

日本の書き初めコンクールでは、余白の重要性は往々にして無視される。子供は、縮こまっていないで元気いっぱいに書くべきだというオトナの意識が、どこかしらあるのかもしれない。そういう精神を責めるつもりは毛頭ないが、結果として、知らず知らずのうちに大人が子供の審美眼を改変してしまっているとも言えなくもない。

対象的に、中国の書法教育においては余白の重要性が強調される。手元にある大学生用の書法の教科書には、「布白则是翰墨尘点的反衬,构成整幅作品的有机组成部分」とある。「余白は書かれた部分と表裏一体をなす、整った作品をつくる有機的な部分である」というような意味である。

下の写真は、私が西安で撮ったものである。大人が書いたものなので、単純な比較はできないが、余白のとり方は典型的な中国式である。(ただし余白をとりすぎて、かえって間が抜けた作品も中国には少なくないが。)

参考例1 中国・西安の書院門街にて

参考例2 同じく書院門街での露店

2)何百枚も書くのはいいが、それは練習に留めるべきで、作品として公に発表するのには、やや抵抗がある。というのも、何百枚も書かないと良い作が書けないというのは、果たしてそれを実力と言っていいのか、疑問だからである。何百枚も書いて、「運良く」完璧な作品が書けたのではないか、と私は思ってしまうのである。

これは私の経験からも言える。「ここが上手く書けなかったから、次はそこを上手に書こう」と思って次の1枚を書くと、そこは良くなるのだが、今度は別の箇所が気に入らない・・・ということはしょっちゅうで、何十枚か書くと、「これはなかなかいいかな」というものが出来上がる。しかし、それは自分ではコントロールしがたいもので、違う機会に同じ枚数を書けば同じクオリティーのものが仕上がる、という保証は全くない。しかし上達するにつれて、50枚が20枚、10枚、5枚と、書き上げる枚数は、確実に減っていく。

何百枚目かに、偶然、どこも気に入らない箇所のない完璧な作品が書けたからといって、それは実力なのだろうか。どの入賞作も、一般的な小中学生に不釣り合いなほど著しく均整が取れているが。

公にすることのない、臨書などを何百枚とするのは良いことだ。それは自分のトレーニングだからである。しかし、自分のトレーニングの成果を見せる作品というのは、数回で書かなければ正直でないと思うのだ。例えて言えば、ルービックキューブである。キューバーと呼ばれるルービックキューブの達人は、ふだんから何百回と練習をしているが、そこで偶然、世界記録を叩き出してしまっても、公式記録にはならない。記録を取るときには、方式によるがたった1回、ないしは5回しか挑戦できないのである。

邵庆祥,潘军主編(2014)『大学书法教程』高等教育出版社 158頁

2017年1月4日水曜日

「書家」には方向性を全く異にする2つのタイプがいることをご存知だろうか

その2タイプ、勝手に名付けて「マスコミ若手書家」と「公募展大御所書家」という。

上海の街角で

一部は私の推測もあり、なおかつ、すこぶる紋切り型な分類であることは申し上げるまでもないが、「マスコミ若手書家」は、ネットが普及した2000年代に登場し、以下のような特徴を持つ。

活動形態として
・しゃれた公式サイトを持ち
・仕事はネット経由が多く
・パフォーマンスを行ったり
・マスコミに出たり大衆向けの本を書いたりするが、
・大手公募展には出品しないことが多い
・自身の教室は必ずしも持っておらず
・主に広告や商品ラベル等に書を提供することが仕事で
・しばしば欧米を意識している

作品形式として
・強烈な個性の書風を開拓し
・1文字ないしは数文字、あるいは平易な散文が主な作品である
・客観的評価(大手公募展の入選等)が皆無または乏しく、実力のバラつきが激しく
・媒体は紙に限らず、布、電子媒体、入れ墨など多岐にわたる

例:武田氏、中塚氏


対して「公募展大御所書家」は、公募展というものができた戦後以降に登場し、以下のような特徴を持つ。

活動形態として
・ネットを使わないので
・仕事はリアルで受けることが多い
・パフォーマンスを行わず
・マスコミに滅多に出ず、本を書いても玄人向けで
・公募展に出品するのが仕事である
・多くの弟子を抱えており
・主に弟子からの月謝で生計を立てている
・国際的意識はせいぜい中国

作品形式として
・古典に則った書風を確立しており
・漢詩、和歌、その他文学を基調とした作品が主である
・有名な公募展の審査員等の肩書を持ち、一定以上の技量があり
・媒体は紙、印材(=篆刻)、銘木(=刻字)がほとんどである

例:「現代書道二十人展」の各氏

この2タイプの中間として、例えば「大御所書家」的な作品を作りながら、ネットも精力的に使っている人もいる。そういう人の仕事は、ネット経由が半分、リアルが半分なのだろうと思われる。一つの尺度として、サイトにお金を使っていそうかどうかを見れば、その人がどれだけネットに頼っているかを推し量ることができる

まれに、どちらのタイプにも当てはめがたい方がいて、そういう方は、表舞台にほとんど出ずに、独自に創作活動をしている。(趣味でやっている人、という意味ではない。)ただし、私の知る限り、そういう方も、有名な書家を師に持っていることが多いので、作品としては「大御所書家」側である。そういう方々を発掘するのは大変難しいが、個人的に、そういう方々の作品には特別な魅力を感じる。

日展、読売書法展、毎日書道展レベル

2017年1月2日月曜日

「55個の母音を持つ言語」というギネス記録は間違いである

私の手元にある1980年度版の「ギネスブック」に、「最も多くの母音を持つ言語」として、ベトナムのセダン語が挙げられている。信じがたきかな、55個もの母音を持つという。

しかし、これは明らかな間違いである。セダン語を記述した論文にあたると、セダン語の母音は7つしかないからである。英語には、母音が10個くらいあるから、英語より少ないのである。

以上。

と言いたいところだが、学生時代の暇に任せて、もう少し詳しいことを書いたので、以下に続く。


その記録は以下のようである。「最も多くの母音を持つ言語」として、

最も多くの母音を持つ言語はベトナム中央部のセダン(Sedang)で、55のはっきり区別できる母音を持つ。(144頁)

とある。記述は以上で、出典はない。さて、この記録を信じていいのか。

日本語の母音は、「アイウエオ」の5つである。英語の母音はもっと多くて、アメリカの一般的な英語だと、10個くらいある。

世界の言語を見渡すと、アラビア語や沖縄の一部の方言のように3つの母音しか持たない言語や、ドイツ語、フランス語、ヒンドゥー語のように10以上の母音を持つ言語もある。しかし一般に、世界の言語を見渡したとき、日本語、中国語のように5~7個の母音を持つ言語が大半である。母音が20を超える言語を私は知らず、55個となると、凄まじい数である。

母音というものは、基本的に、舌の上下前後の位置や、唇のすぼめ具合を調整することによって発声される。つまり母音とは、いろいろなバリエーションのあり得る子音と違って、口の中で、舌の位置や唇の形を絶妙に変えることによって生み出される、デリケートな音である。であるから、本当に55個も母音を持つ言語があったとしたら、それを発声する口と、それを聞き分ける耳に、とてつもない精密さが要求されるということだ。果たしてそんな緻密すぎることができるのか。

そんな言語学の知識を抜きにしても、「母音が55個」なんていうのは、直感的に考えておかしい。

あの有名な「ギネス世界記録」に間違いが?と思うかもしれない。けれども、ギネス・ワールド・レコーズ社の担当者が十分な言語学の知識を持ち合わせていたとは限らないのである。担当者の見当違いということはありえない話ではない。

真偽を確かめるべく、調査をしてみたところ(2年ほど前のことです)、セダン語を記述した文献として、次の2冊が見つかった。

Smith, K. D. 1982. Phonology and Syntax of Sedang, A Vietnamese Mon-Khmer Language (Doctoral dissertation, University of Pennsylvania, 1975).

Smith, K. D. 1979. Sedang Grammar: Phonological and Syntactic Structure. Canberra: Australian National University.

スミス(1979)(左)とスミス(1982)の文献

セダン語の研究ではKenneth Smith(以下、スミス)という人が第一人者であるようだ。1979年の文献は、博士論文である1975年の文献の再版と思われ、2冊の内容は全く同じである。よって、以下は新しい方の文献に基づいている。

以下、厳密さを損ねないため、必要最小限の専門用語を使っているが、難しいと感じれば、読み飛ばしても構わない。結論から言うと、冒頭で申し上げたようにセダン語は平々凡々の7母音体系である。

スミス(1979:31-44頁)によると、セダン語の単純母音は、/i, e, ɛ, a, ɔ, o, u/ の7つである。下が母音表である。

iu
eo
ɛɔ
a
セダン語の母音

はい、終わり。

セダン語は、何の変哲もない母音体系である。母音が7つというのは、世界の言語の中でもごく標準的な数である。この母音体系は、イタリア語とさして変わらない。期待していただけに、拍子抜けする。

ならば、一体どうして、55母音という突拍子もない数字が出てきたのか、知りたくなってくる。

私の推測だが、1)「緊張音」、「複合母音」、「鼻母音」という、セダン語の複雑な副次的母音体系を間違って理解した、2)子音を間違えて母音の数に入れてしまった、という2つの可能性がある。

(2)は手のつけようのない凡ミスだが、(1)について、もう少し詳しく言う。セダン語を含む周辺のいくつかの東南アジア諸語の母音には、lax(弛緩)とtense(緊張)という区別があるそうだ。つまり、上に挙げた7つの単純母音のそれぞれに、弛緩音と緊張音の区別がある。弛緩音がいわゆる普通の発声の母音で、緊張音とは一般に「きしみ音(creaky voice)」と呼ばれる音である。日本語にはない音だが、「あ゛ー」や「う゛ー」と書かれる低いうなり声を想像すればいい。(きしみ音の音声(ページ下部)と英語の図解。)

加えて、セダン語には9つの複合母音があり、さらに一部の母音には鼻母音がある。仮に、単純母音、緊張音、それらの複合母音、それらの鼻母音を、全て1種類の母音と見なすならば、私の計算では、51個になるのだ。

しかし、これは言語学上の慣習を完全に無視している。言語学において、「母音の数」というのは、原則として単純母音の数を意味するのであり、鼻母音、複合母音、その他特殊な母音は、数のうちに含めない。日本語にも長母音(アーイーウーエーオー)という特殊な母音があるが、それを独立した母音とはみなさないのと同じである。

論文に依拠して、言語学的に真っ当な結論を申し上げると、セダン語は、繰り返すように、7母音しか持たないのである。

参考
ノリス・マクワーター編(1979)『ギネスブック』講談社