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竹細工を教えてもらっています

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仕事のかたわら、須賀川の竹細工を習い始めて1か月。先生のお宅に今まで3回お邪魔して、竹の割り方と削り方を教わっているが、悪戦苦闘。 ザルやかごを編むための竹ひごを作るには、竹を4等分に割ったあと、皮の部分を幅5ミリ、厚さ1ミリ程度に剥ぐ。その薄く削った皮の部分を細工に使うのである。 先生のおっしゃることが理屈では分かっていても、手が動かない。竹を割るのは一応はできるようになって来ているとしても、削るのが全然だめ。厚すぎるのはまだいいけれど、どうしても薄くなって、途中でちぎれてしまうことが多い。 竹の切れ端で手を切るし、鋭利なナタでも手を切るし、現在、傷だらけの手である。相当の力で竹を押さえつけるもんだから、特に左手の親指は真っ赤になり、その日じゅう知覚過敏のような状態が続く。このごろ、親指の皮が厚くなったのが分かる。指の腹を触ってみた感覚が違うし、触覚も少し鈍った。竹細工用に手が変わってきている。 須賀川の竹細工には、根曲がり竹という、人差し指くらいの細さの竹(学術的にはチシマザサ)を使う。 竹なんて全部同じだと思っていたが、竹割りを習ってみると、種類ごとの性質の違いがまざまざと分かる。 根曲がり竹は、切ってまだ青い状態で割る。繊維に粘りがあって、割るのが難儀だが、途中で折れることもないし、細かい細工もできる。一方、ペットボトルの蓋くらいの太さになる真竹や苦竹は、中途半端な乾燥で割ろうとすると節のところで突っかかって、折れてしまう。しっかり乾燥させれば、パキパキと簡単に割れるのだが、粘りがないので細かい細工は難しい。 種類によって節の形も全然違うし、皮のツヤも違う。根曲がり竹の節はすべらかで、皮のツヤがとてもいい。真竹・苦竹の節は、水墨画で描かれるいわゆる竹節らしい竹節で、またツヤは多少劣る。 根曲がり竹のひご ホームセンターで買ってきた苦竹(?)のひご 割り方はひと通り教わったので、ホームセンターで50円の竹の棒を買ってきて自習をした。根曲がり竹と違いパキパキと簡単にきれいに割れるので、ペットボトルの蓋の太さのものが16等分になった。割りも削りも、まずまずの出来。これと同じくらい上手に根曲がり竹も割れたらいいんだけど・・・。

長野県小布施の岩松院にて

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4月3日、長野県小布施町の岩松院にて、葛飾北斎の天井画「八方睨み鳳凰図」を見に。 歴史のある町では、いい字を見つけることができる。 巨大な円相(?)の左に篆書で「無欠无餘」 入口で見つけた「脚下照顧」 「無欠无餘」は「欠けること無く、余ること無く」。「脚下照顧」は「足元をよく見よ」。ともに禅宗の言葉だそうである。

疑問詞のなかで「なぜ」だけが異質な理由

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「なに、どれ、だれ、どこ、いつ、どう」など、いくつかある疑問詞のなかでも、「なぜ」だけは仲間外れな感じがする。 一言で説明するのが難しいのだが、感覚的に言うと、ほかの疑問詞を使った疑問文に比べて「なぜ」で聞かれる疑問文は「答えにくい」のである。例えばの話、 なにを見たいの? どれを見たいの? だれを見たいの? どこで見たいの? いつ見たいの? どう見たいの? と聞かれたら、それぞれ、 ショーを見たい。 「マイ・フレンド・ダッフィー」を見たい。 ダッフィーを見たい。 最前列で見たい。 誕生日に見たい。 食事をしながら見たい。 などと答えればいい。簡単である。しかし、 なぜ見たいの? と聞かれたら、答えるのに多少頭の中で準備をしなければならないと思う。人によっては、「そんな野暮なことを聞くな」と思ってしまうかもしれない。 本のタイトル 『なぜ◯◯なのか』というタイトルの本は非常に多い。けれども『誰が◯◯なのか』というような本はあまり聞かない。試しに、 アマゾンの詳細検索 で、本・漫画・雑誌のタイトルに「なぜ のか」や「誰 のか」というキーワードを含むものを検索してみた。結果は以下のようだった。実際に検索キーワードをタイトルに含んでいない本もたくさんヒットするが、ヒット数には何の操作もしていない。そのため大変荒っぽい統計ではあるが、割合を見る目安にはなる。 明らかに、『なぜ◯◯なのか』というタイトルの本が抜きん出て多いことが分かる。 『なぜ、この人と話すと楽になるのか』 1 という本は、手にとってみたくもなるが、タイトルをちょっと変えて、 『 誰 と話すと楽になるのか』 『この人と どこ で話すと楽になるのか』 『この人と いつ 話すと楽になるのか』 『この人と 何 を話すと楽になるのか』 『この人と話すと どう なるのか』 としたら、大した事が書かれてなさそうな気がする。 「なぜ」が、なぜこうも特殊なのかというに、ひとつ言えるのは、聞いていることが違うのである。「なぜ」以外の質問は、ある出来事のある一部分を知りたくて聞いているのである。例えば、「だれ」という問いは出来事の主体や相手を、「どこ」という問いは出来事の場所を、「どう」