2014年10月31日金曜日

宮本常一『民具学試論』

宮本常一(2005)『民具学試論 宮本常一著作集 45』未來社

を読んだ。7月に宮本常一を読んでからというもの、その世界にすっかり引き込まれた。

宮本常一(1907~1981)は、民具の研究を一個の独立した学問に押し上げようとした人物である。それまでは民俗調査のついでに補助的手段として行われてきた民具、すなわち素人の作る道具類、の調査を、民俗学とは独立の、民具中心の研究として打ち立てようとした。宮本は仲間とともに全国を調査し、方法論を模索した。

民具学の対象とするものは、柳宗悦(1889~1961)の民藝運動とほとんど重なる。どちらも、陶器、木工、竹工、藁工、金工、布などの日用品を相手に展開された。同じものを対象にしながらも、しかし、宮本と柳のアプローチは全く異なっていた。

柳宗悦の民藝は、物の外面の美しさだけに注目する。民藝においては、色や形の美しさ、具体的には、健気さ、質実さ、立派さが最も重要である。もちろん柳は素材の良さや、作り手の精神性なども、民藝に不可欠な要素として説いている。しかし、どれをとっても、結局は主観の入り混じった良し悪しの判断でしかない。あくまで個々の物から感じられる美醜の感情のみで物を見ているのであって、例えば美しさの入る余地のない鍬(くわ)や犂(すき)などは、民具ではあっても民藝の範疇ではないのである。事実、柳は、まず知識を捨てて直観で物を見ろと、しきりに言っている。

美しいと感じることは万人に許された特権であり、誰もが美しいものに惹かれる。これは事実である。現在も民藝の品々が多くの人に愛されている所以である。しかしそこでは、物の背後にある文化、技術史、交易史などの学問的な面は、ことごとく無視されている。考えてみれば自然なことで、美しいという感情は誰でも簡単に持つことができるからいいけれども、多くの知識と時間を要する学問的な側面には、人は見向こうとはしないのが普通である。

しかしその学問こそ、宮本の民具学の目指すところなのである。民具を客観的、体系的に研究することで、その背後にある文化や歴史を明らかにしたかった。その点、民藝は、物の鑑賞に終わり、その背景には関与しない浅薄な見方であるといえる。

民具と民藝の区別について、宮本常一に直接語ってもらおう。1973年に発表された「民具研究への道」という小論で次のように言っている。

 民芸は民具の中の美を追求しているものであるが、民具はむしろ文化素材としてこれをみてゆかねばならぬ。
 たとえば、私たちは下手物の陶器の調査をつづけているが、それは今日の陶器ブームに見られるような、その骨董的な価値を追求しているのではない。どこで何が、どのようにして、どれほど作られたか。それがどのような運搬と交易の手段によって、どの範囲に広がっていたか、そしてそれがどんなに使用されたか、またそのような陶器の技術がどんなに普及していたか、また陶器類が、常民の日常生活の中で、他の器具に比して、どのような比重で使用されているかというようなことを一つの視点として追求している(後略)(83ページ)

柳宗悦と宮本常一の活動は互いに全く独立なのだから、目的が違って当然ではないかと思うかもしれない。もっともであるが、問題は2人の時代と対象物が大きくかぶっていたがために、宮本は、柳宗悦を直接名指しこそしなかったとはいえ、民藝運動を厄介扱いせざるを得なかった。

というのも、民藝というものが認知されていくにつれ、好事家や骨董屋が、やみくもに民具を買い集めてしまうものだから、民具研究をする者にとっては、研究資料が失われてしまうことを意味した。一旦蒐集家や骨董屋の手にわたってしまえば、どこで、誰が、どういう状況で使われたかが分からなくなってしまうので、資料としての価値はなくなってしまう。

 民具が骨董品として取り扱われるまえに、また民芸品などといってディレッタンチズムの中へまきこまれるまえに、民衆の文化をさぐりあてる重要な素材として研究をすすめたいものである。(「民具試論」121ページ)

近代化した日本では、民具は減ることはあっても増えることはない。宮本はそれに危機感を覚え、民具の学の成立を急いだのである。

2014年10月28日火曜日

ICU祭作品展 子字十四体・篆書七言対聯

10月25日(土)と26日(日)に、ICUの学園祭、ICU祭が行われた。書道部は4年目の作品展を無事開くことができた。作品の量、質ともに昨年よりも格段に上がった。表装も例年通りすべて部員の手作業だったために貧相だったとはいえ、去年に比べれば随分見栄えが良いと思う。

書道部のFacebookページに、作品展の写真が少し載っているのでそちらもご覧頂けたらと思う。(ちょっと宣伝ですが、Facebookでは部の最新情報が見られるので、もし気に入っていただけたら、ページの「いいね!」もよろしくお願いします。)

今年の私の出品は、おそらく今までで一番少なく2点だ。去年は臨書(中国の古典作品を模して書くこと)が3点と刻字が1点の合わせて4点だった。今年は、両方創作で、しかも篆書だった。ここ1年くらいは篆書ばかりやっている。もう1つくらい出したかったが、時間がなく書き上げられなかった。

一つは、こどもの日に書いた「子字十四体」である。字の配置に工夫したところが1点あるが、分かっていただけるだろうか。

子字十四体
約72×35cm

もう1つは、明代の詩人呉寛の次の七言律詩から取った(繁体字で失礼)。季節としては秋の詩である。

何處疏砧隔短牆、
東鄰有婦搗衣裳。
風林落葉秋聲動、
露草鳴蛩夜氣涼。
久別官寮忘館閣、
每從兒子話家鄉。
強扶筇竹歸深院、
半壁殘燈獨上床。

2つで1組の掛軸の形式を、対聯(ついれん。対幅・双幅とも)という。

篆書七言対聯
約135×17.5cm×2

部分

2014年10月19日日曜日

ドキュメンタリー映画「聖者たちの食卓」

インターネットやテレビによって世界中のあらゆる情報が大量に流れてくる現代にあっても、やはり知ることのできないことはいくらでもある。インターネットで何でも知ることができるようになったなんて思ったら、大間違いなんである。

時には、どこか異国のある僻地で、あまり外には知られることなくビックリするような風習が粛々と続いているなんてことがあるわけだ。

先月、インドのとある寺院の食堂「ランガル」の存在を知ったとき、世界の広さ、いや、12億人のひしめくインドの広さに全く恐れ入った。

インドのアムリトサルにあるシク教の総本山、「黄金寺院」では、毎日なんと10万食の人々に、無料でカレーを提供している。にわかには信じがたい。1日述べ10万人である。人数も桁違いだが、この無料食堂が、500年以上にわたって続いているというのだ。調理や清掃は、スタッフの奉仕活動で支えられている。

一体全体どうして、来る日も来る日も膨大な量の食事を500年以上も提供し続けて来られたというのか。2011年にベルギーで制作されたこの寺院のドキュメンタリー映画が、先月9月27日から日本で公開されている。見たい、という強い好奇心に突き動かされて、今日19日、新宿まで見に行った。

期待以上だった。

このドキュメンタリーから私が受け取ったのは、食堂で働くスタッフや、食事を求めてやってくる人々を支配している、驚くほどの秩序だ。

私がインドに対して持っているイメージといったら、どちらかと言えば、秩序というより無規律な人々、清潔というよりは不衛生な環境・・・。もちろんこれが当てはまる場合が多いのだろう。しかしここ黄金寺院に関する限り、意外なほどに人々は順番や規律を守り、徹底して掃除をする。特に、大量の食器の洗うときや、巨大な鍋の磨くとき(もちろんすべて人力)には、日本人顔負けの丁寧さがあった。

それはもしかしたら、宗教、カースト、肌の色、信条、年齢、性別、社会的地位に関係なくすべての人は平等であると説くシク教徒の、敬虔さによるのかもしれない。

けれどそもそも、一度に数万食分の食事を作るのに、材料や燃料の運搬から始まって、材料の下ごしらえ、煮込み、食器の配布、給仕、掃除などなどなどが、どこも滞ることなく機能しているんだからすごい。500年以上も続いているんだから、流れが出来上がっているのは当たり前ではあるのだが。

同時に、人間の生活の最も根本的な営み、食についても、重要なメッセージを投げかけている。食事だけを当てにして来る人も多いが、食堂のスタッフは、食べさせてもらっている代わりに奉仕的に働く。畑を耕し、調理をし、後片付けをする。その対価として、食事を与えられる。宗教、労働、食事は人間にとって根本的であること、不可分であることを教えられた気がする。

まだしばらく上映中である。興味を持たれたら、ぜひ見に行ってみて欲しい。

参考
「1日10万食。驚異のインド無料食堂をありのままに伝えたい! 映画「聖者たちの食卓」監督インタビュー」

2014年10月12日日曜日

書道入門 おすすめの参考書

趣味として書道をする人は少なくない。

書道を学ぼうと思ったら、一般的には、高校や大学の書道部に入るか、もしくは近所の書道教室に通うのが一番手っ取り早い。

けれども、もっと手軽に、独学で書をたしなみたいという人もいると思う。そういうときには、入門書や参考書にあたりながら学習することになるだろう。また、部活動や教室で実践的に学んでいる人も、歴史や理論など、学問的な側面も強化したいという人もいると思う。

そこで、本を探しに書店に出かけたりアマゾンで検索したりするわけだが、ひとつ、最初期に出会った本は、その後の書作に大きく影響することに気をつけて欲しい。質の悪い本にあたってしまえば、間違った知識が身についてしまうし、良い作品も生まれないものである。こんにち、大きめの本屋に行けば、たいてい書道の入門書がいくつか置いてあるが、実は、内容が浅く、書も俗っぽい物が少なくない。

現代は、有名な公募展の審査員レベルの有名書家は滅多に本を書くことがないというのが主な原因だ。せいぜい雑誌記事を投稿する程度である。今の本は、ルックスのいい若手書家か、「美文字」とか「遊書」みたいな新語をこしらえて前面に打ち出すかしないと、本が売れないようなのだ。内容の質は二の次になってしまっている。

というわけで以下では、私のおすすめする、書道入門期の良質な参考書(篆刻に関するものは除く)を3冊紹介する。どれも写真が豊富で、入手しやすいものを選んだ。

全国大学書道学会(編)(2013)『書の古典と理論』光村図書出版


まずは一画一画の引き方から学び直したいと思ったら、本書から入るのがよいであろう。臨書とは何か、筆の持ち方、漢字の歴史等の理論面は、網羅的で大変勉強になり、点画の特徴を書体ごとに詳しく説明してある点も貴重である。何より、中国、日本の有名な古典書跡が精細なカラー写真とともに解説されているのが非常にありがたい。さらに本書のよいところは、複数の専門家による共同執筆であるという点だ。一人の著者によるものだと、どうしても内容がその人の嗜好に偏ってしまう可能性が高い。しかし本書は、大勢のプロの検討の上に編まれているため、標準的かつ広範囲な知識が得られるのである。

松井如流(編)(1958)『條幅・扁額の研究』二玄社


一つ一つの字が書けるようになってきたら、それを作品にまとめたいというのは自然な欲求である。そのとき重宝するのが、この『條幅・扁額の研究』である。漢字の各書体(楷書・行書・草書・隷書・篆書)や仮名の、条幅(掛軸のこと)や扁額(壁上に掲げる額装の作品のこと)の構成方法や、落款の書き方などを参照したいときに役に立つ。これも複数の執筆者によるものだが、その面々が凄い。20世紀を代表する大書道家・篆刻家が30人以上、おのおの1章を担当していて、今見るとお宝みたいな本である。これ1冊で様々な書家の作風を鑑賞できるのも嬉しい。

伏見冲敬(1960)『書の歴史―中国編』二玄社


臨書(古典作品を真似て書くこと)の学習が進むにつれて、他にはどんな古典があるのか、またはある古典がいつ書かれ(建立されて)、どこに現存しているのかを調べたいときには、この本に当たるのがよい。殷代以来の三千年間の書体の変遷、伝達媒体の変遷を通覧したいときにも、本書はうってつけだ。マイナーなものも含めた中国の古典が、短い解説とともに羅列されている。あくまで断片的な情報なので、興味をもった作品は個別に法帖を買うなどして学習を深めるのがいい。2012年には増補版が出て、近年の出土資料も加えられたので、こちらを買うのもよい[1]。ちなみに本書の「日本編」はない。

これら3冊は文字の多い解説書なので、実践、つまり古典の臨書には、各種法帖(手本)を買うことが加えて必要であることも申し述べておく。

もちろん、以上の選定は偏っているかもしれないし、付け加えるべき本もあるだろう。第一、私はまだ大学生なので、知識も経験も少ない。第二に私の意見では、読書による知識、鑑賞による審美眼、そして臨書による経験の3つが書道において最も重要だと思っている。歴史的知識の伴わないアーティスティックな書とか、近年現れたヘタウマな脱力系文字とか、巨大な書とかには興味が無いので、それらに関する情報はよく存じ上げない。第三に、私はおおよそ昭和以前に行われた伝統的な形式に重きをおく方なので、上に挙げた本にも古いものが2冊ある。

だがしかし、知識が豊富でないとはいえ、今まで50冊以上の解説書や辞書を買い、目を通していつでも参照できるようにしてある。図録や字典も含めれば優に2倍になるし、その上に法帖もある。大学以降は独学とはいえ、基本的な知識は全て押さえているつもりである。他にも大学図書館や書店で、めぼしい解説書等はなるべくチェックしている。それに、古い本を選んだとはいえ、どちらも版を多く重ねている。(『書の歴史』だと、私の持っているのは2008年の38版だ。)それだけ長い支持を得てきたということだ。(それ以降はそれらを上回る良書が出ていないという状況の裏返しでもあるのだが。)上のセレクトはそういう点で参考する価値があるだろう。

ピカソのような前衛的な画家でも、その基礎にはデッサンの訓練があった。ピカソは写実的な絵にも大変優れていた。書道にも近道はない。ただやみくもに書くのではなく、確かな学問が伴わなければ書道は完成しないと言える。

[1]装丁にこだわる人なら、ソフトカバーの新訂版よりも、箔打ち・布装・函入りのオリジナル版をおすすめする。