2014年3月31日月曜日

<今月の退行> 二 みんなレジ袋もらいすぎ

忘れた頃にやってくる<今月の退行>。無事第2号を迎えることができた。<今月の退行>とは、毎月末に、わたくしももせの因習墨守にして旧態依然(そしてひょっとしたらロハス)なさまを少しずつさらけ出すシリーズだ。つまるところ、刺激の多い今の生活に疑いの目を向けて、ひと昔の生活に思いを馳せてみたという話である。

年度末の第2号は、日々溜まっていくレジ袋に関するお話。



レジ袋、いらんやろ

コンビニ、スーパー、ベーカリーなどで、膨大な量のビニール袋が消費されている。

私は塾講師のアルバイトをしているが、一部の生徒は、塾に来る前にコンビニに寄って、飲み物やお菓子を買ってくる。中学校、高校で買い食いした記憶のない田舎者の私には、毎度のようにペットボトルのジュースやガムを買ってくること自体、贅沢に思えるのだが、そのことは今は置いておいて、今回私が焦点を当てたいのは、それら商品を入れる、ビニールのレジ袋である。

私の意見は至極単純だ。(それゆえ何の新規性もない・・・。)滅多なことで、レジ袋はもらうべきではない。1点しか買わない場合は当然ながら、何点も買う場合でも、他の容れ物でいくらでも代用できる。

もちろん、エコバッグを一つ作るために必要なエネルギーが、それによって削減されるであろうビニール袋を作るための石油等のエネルギーより多いとしたら、本末転倒もいいところだ。これは私の意見の大きな弱点であり、事実、私に不利益な証拠もあるかもしれない。だからと言って、(確たる証拠があるわけでもないが)私の意見を唾棄すべきとは思えない。なぜか。私個人の場合を考える。

私はエコバッグを持っていず、普通のリュックサックをその代わりにしている。そのおかげで、一人暮らしを始めて以来、何百枚のレジ袋をもらわずに済んだか知れない。買い物袋として何かを買ったことはないので、結局私は、その数百枚のレジ袋の対価としてのエネルギーを全く消費していないことになる。その上、それら大量のレジ袋を焼却、埋立、もしくはリサイクルするエネルギーも節約したことになる。

要は、新しくエコバッグを買う必要もなく、それも何年も使えば、その容れ物分のエネルギーは回収できるという算段だ。

いま、エネルギーのみみっちい差し引きを考えたが、それはあくまで論理的な議論のため。正直なところ、ビニール袋を浪費してモッタイナイという、根っからの貧乏性と素朴な正義感が原動力である。

2014年3月30日日曜日

谷崎潤一郎『細雪』をすすめられて

谷崎潤一郎の『細雪』を友人に進められて、2週間ほどかかって読み終えた。900ページ近くあって尻込みしたのだが、春休みの時間のある今ならと思って読んだ。(小説は、10月に江戸川乱歩を読んで以来だ!)

まったく小説を読まないのでまともな批評なぞ書けっこないけれども、読みながら感じたことを書き留めておこうと思う。『細雪』をこれから読むという人は、なるべく先入観を持たない方がいいと思うから、詳しく読みたくない方のために、結論だけ初めに書いておこう。

結論:一読をオススメします。

中央公論社の『谷崎潤一郎全集』(1968)で読んだが、上中下が一緒になっていて厚い!

『細雪』は、昭和10年代の、関西のある上流の家庭の姉妹を描いている。

文章がとても美しい、という触れ込みで薦められてたので、文章に対する審美眼がいまいち欠けている私は、美しい日本語とはどんなものだろうかと心して読み始めた。結論から言うと、『細雪』の日本語の美しさをついに味わえずにしまい、そこらへんの感受性がとんと欠如していることを再認識したのであるが、谷崎潤一郎のあの特徴的な、読点の続くものすごく息の長い文章が、ほとんど苦にならなかった。私はだらだらと続く長文はあまり好きではないのだが、『細雪』の文は、部分と部分の関係が稠密でないので、割と苦労なく読めるのだ。

日本語に関連していうと、登場人物の交わす関西弁が心地よい。読み始めてからというもの、頭の中が関西弁になってしまっていたほどだ。

『細雪』はかなりの長編だが、何か一つ大きな事件があるのではなく、中くらいの事件が立て続けに起こる感じで、それが読むのを飽きさせなかった原因の一つでもある。もちろん、物語の方向は一貫したものがあるのだが、『細雪』は(一部を除いて)連載だったこともあって、続きが読みたい、と思わせるように、細かに緩急がつけられている。物語に大きな波があるわけでもなく、これで900ページは長い、間延びしている、と、初めのうちこそは思え、そこは谷崎の文章と構成の妙で、結局冗長さは感じなかった。

さて、『細雪』を何よりも『細雪』たらしめているものは、やはり舞台となった昭和10年代当時の倫理観で生きる、登場人物の心情の機微ではあるまいか。当時のならわし、特に男女の立場、家族、交際、結婚に関する習俗は、今とは比べ物にならないほどの厳格さをもって効いていた。良い悪いは個人の判断に任せるとして、現代では(少なくとも私の周囲では)ほとんど消えてしまっている価値観である。だから平成生まれの私には、当時の価値観の中に生きている登場人物の心情の陰翳が、奥ゆかしく映る。それは私の安直なノスタルジーだと言えばそれまでであるが、谷崎の描き出すデリケートな人間関係のドラマは、物語を一層深いものにしているのだ。

2014年3月2日日曜日

「ルルルルル・・・」の「巻き舌」はそんなに舌を巻いていない

舌をふるわせて出す「ルルルルル・・・」という音があるだろう。

私は小学生のとき、友達がやっているのを見て、スゲーと思ってずっと練習していた記憶がある。できるようになるまでに、何日もかかったと思う。大学1年のときタイ語をかじったときには、この音をいい気になって連発していたから、おかげで今は自由に出せる。まあそんなことはどうでもよろしい。

この音は言語学的には「歯茎顫動音」や「歯茎ふるえ音」と言われていて、日本語話者には難しい音だ。日本語にはこの音を使う場面がないからだ。変な音に思えるかもしれないが、この音をれっきとした言語音として使う言語は少なくない。例としてスペイン語やイタリア語やアラビア語などが挙げられる。例えばスペイン語のperro(犬)の「rr」はふるえ音だ。音声はこちらの「alveolar trill /r/」で聞ける。

ご存知のように、この音は一般には「巻き舌」と呼ばれている。

ここで本題:でもこの音、本当に舌を巻いているのか?

このいわゆる「巻き舌」は、実は舌を巻いていないという指摘が21世紀の初頭になされ(Momose 2014: 933)、「巻き舌呼称問題」として、すでに幾十の論文が発表されている。(うそである。)

でも本当に、「巻き舌」は舌を巻いていない。もちろん、「巻く」というのは舌を後ろに反らせるということだろう。しかし、そんなに反らせていない。確かめてみよう。ルルルルル・・・。

歯茎ふるえ音
画像:ローザンヌ大学 Online Phonetics Course Alveolar trill

このルルルの巻き舌ではなく、実はもっと巻いている音が他にある。中国語に。

中国語では「捲舌音」と言われていて、ピンインでは<r>、IPAでは/ɻ/と書かれる音がそれだ。その名の通り、舌の先を思い切り後ろに反らせて、上顎に接近させて声を出してみよう。ちょっとくぐもったrといった感じの音が、中国語の捲舌音だ。ちなみに専門的には、「反り舌近接音」という。音声はこちらの「retroflex approximant /ɻ/」。


反り舌近接音の画像がなかったので、それにきわめて近い「反り舌摩擦音」
画像:ローザンヌ大学 Online Phonetics Course Voiceless / voiced retroflex fricative

これがほんとうの意味での巻き舌なのではないか、というのが私の密かな思いだ。

ネットで検索しても、そう主張している人はあまりなさそうだし、Wikipediaには、ルルルの巻き舌と中国語の捲舌音をまれに混同するとまで書いてある。捲舌音が本当の巻き舌じゃないのかな。

ルルル=「巻き舌」は、名が実を表していないけれども、ならわしとしてその呼び名ですっかり定着している。だが私は、歴史のどこかで誰かが名づけ間違えた、もしくは、捲舌音か何かと取り違えたのではないか、と信じ続けることにしよう。