2013年12月31日火曜日

大晦日

玄関先にあった硯形の亀

クリスマスにはいまいちのれないが、年末から正月の雰囲気が大好きだ。いつも存分に満喫している。特に大晦日の夜から元日は、すごく幸せな気分になる。家族とコタツにあたって食べる年越しのご馳走から元旦のブリ、そして元日の大量の新聞を眺めるときなどは、言いしれない幸福感に包まれている。カウントダウンの仕方は毎年戸惑うけれども

先ほど年越しそばを食べた。ソバはうちで作ったのを粉にしてもらって手打ち、薬味にはうちで採れたネギを切り、もらったものだけれども近隣の地域で採れたネズミダイコンのおろし、そして砕いたクルミ。つゆ以外、ほぼすべて地産地消だった。

クルミは初めてだった。私が金づちでたたいて割ってほじくり出して、母がフードプロセッサーで粉々にしたが、しょっぱいつゆに、木の実の風味とほんのりした甘みが効いてとてもおいしかった。

明日の元旦は、友達と近所に初日の出を見に行く。

2013年12月26日木曜日

冬至を迎える

12月初め、近所で、目を見はるようなきれいなイチョウの絨毯を見つけた。思わずカメラを持ちだして撮りに行った。これはローカルに死蔵させておくまいとて、1枚。


3枚ほど持ち帰って、押し葉にしてある。

最近は夜がめっぽう寒くて、何もできない。本を読もうにも集中できない(PCに向かってばかり・・・)。しばれる寒さに耐えかねて、ここ1週間で2回ほど、こういうときは「石鼓文」でも書くのがよろしいという心理的ジャンプを引き起こした。


篆書は紙と墨の相性に特に敏感である。何種類かの紙を試したが、あまりうまくいかない。写真は反古紙に臨模したものだが、これはその相性がうんと良かった。孫過庭が「書譜」で論じているところの、「紙墨相発す」である。

またまた話は変わって、つい先日、22日には冬至を迎えた。冬至は1年で最も日が短いので、もうあとは日がのびていくのみである。そう思うと毎年うれしくて、冬至は1年のうちでも大好きな日のひとつだ。この喜びを書で表したいという感興に駆られ、書いた。
「冬至 綿邈冬夕永」 235x345mm

夕食前に発心し、深夜、日が変わる前に数十分で書き上げた。「書譜」のいうところの、「偶然書せんと欲す」である。

2013年12月25日水曜日

メリー・クリスマス――自己顕示欲と自己満足

メリー・クリスマス。

日本人は、師走末から正月初めのわずか1週間足らずの間に、キリスト教(クリスマス)→仏教(除夜の鐘)→神道(初詣)と、モンゴル遊牧民の乗馬のごとく素早く華麗に宗教を乗り換える。キリスト教徒でなくても、時期が来ると、いや、ところによっては11月もはよから、どこもかしこも念仏のように唱える。商業主義の勝利である。

Merry Christmas!

日本ではクリスマスは恋人と過ごす日として定着している。しかしアメリカの友達によると、向こうではクリスマスはむしろ家族が集まる日であって、対して1月1日が恋人と過ごす日なのだそうだ。日本と逆である。だからどうと言うわけではないけども。

Mele Kalikimaka!

ところでハワイ語は子音が少なく、日本語で/θ/(英語のth)が/s/になるように、ハワイ語話者の耳には/r/(英語のr)は/l/に聞こえ、/s/はなんと/k/になってしまう。ハワイ語に/s/は無い。だから「メリー・クリスマス」は、なんやかんやで「メレ・カリキマカ」になる(詳しくはこちらを参照)。

以上、季節の話題であった。

さて、ついたち以降、久しぶりの更新だ。いつもなら読んだ本など書き留めているが、億劫で書いていない。書くのが億劫なだけで、本は読んでいる。最近は平行して3、4冊くらいだ。おかげで効率が悪い。でも実は、読んでいる以上に買っている。次第に積ん読が増えているが、それが楽しい。近況のひとつを挙げるとすると、最近本に使うお金がぐんと増えた。

更新が停滞気味なのはまた、自らの内面を公衆の面前にさらけ出したり、駄文を書き散らしたりすることに、最近疑問を感じないではないということもあるかもしれない。このブログの内容は、あまり人の役に立つものではない。特に個人の雑多な読書記録は、自分のためになりこそすれ、話題の本のレビューでもない限りあまり人の役には立たない(実際PV数は無いに等しい)。書くのに時間がかかる割に(これでも文章は毎回かなり練っている)、書いたものは往々にして自己満足に終わっているのではないか。

反省してみると、私をしてブログを書かしめている原動力は、「ほらほら僕のこと知って!」という自己顕示欲と、「始めたからには続けなければ」という根っからのコツコツ初志貫徹主義である。人に何か知ってもらおうとか、考えてもらおうという動機で書くことはあまり無い。

ただし、こんなことを書いているからといって、更新頻度落としますとか、メンドイので本のこと書きませんとか、アクセス稼ぎに面白いこと書きますとか、この人就活で病んでいるんじゃないかとか、そういうことではありませぬ。マイペースでやっていくつもりだし、気も病んでいない。でも、ちょっと方向転換して、非生産的な内省や自己満足は避けるようにしてみよう。結果として内容は変わるかもしれない。

以上、いい加減なにか書きたいと思って文章を絞り出していたら、自分でもがっかりするくらいに軸のない文章になってしまった。推敲しながら、「そもそもこれ書く必要があったかな?」と自問自答を繰り返さずにはいられなかった。

このエントリー、これ以上書くと余計に支離滅裂になるが、かと言ってここで止めると、まさにジコマンな、薄っぺらな文章の塊になってしまう。読んでくださった時間が無駄なものにならないよう、せめて最後に写真をば。


ちょうど1ヶ月前、11月の終わりごろ、強い風が吹いた翌日だったと思うが、2階の部屋のバルコニーにきれいに色づいたモミジが流れ着いていた。

2013年12月1日日曜日

『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』

ガイ・ドイッチャー(椋田直子訳)(2012)『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』インターシフト
Guy Deutscher. (2010). Through the Language Glass.

言語が違えば、世界も違って見えるわけ [単行本] / ガイ ドイッチャー (著); 椋田 直子 (翻訳); インターシフト (刊)

言語学には、検証がとても難しいために、全くと言っていいほど手付かずのまま放ったらかしにされている疑問がいくつかある。

本書では、2つの大きな問題を扱っている。1つは、言語は思考に影響を与えるのだろうか(もしくは制限しているか)という問い、もう1つは逆に、文化は言語に影響を及ぼすのだろうか、という問いである。前者はいわゆる「サピア・ウォーフの仮説」として知られているものだが、現在では彼らの元々の説には懐疑的な向きが一般的である。ある言語で表現されない物や概念は、その話者は思考することができないという強い仮説は現在では否定され、それをまともに信じている言語学者はいない。

しかし、言語から思考という方向にせよ、文化から言語という方向にせよ、何らかの決定は少しあるかもしれないというふうには、おぼろげながら考えられていて、ただ、それが果たして「どのような」ものであって、「どの程度」までの作用であるかは、何の議論もする術がないのである。

それに関連してもう1つ、言語学者があまり深く語ってこなかった、というよりも正確には、理論的に深入りしようがなかった、いわば公理のようなものがあって、それは、「すべて言語は同じ程度に複雑である」というものである(もちろん他にもあるけど、本書で扱うのはこれだけ)。ある言語がある言語より難しい、というのは、ただの神話なのである。これは、言語学では申し合わせたようにあまねく受け入れられていて、この大前提を侵すことは、いわばタブーとされている。反論らしい反論もできないから、タブーと言うより、触れる必要がなかったのであるが。

ただし、言語の難しさを数値化することは不可能である。だから、すべての言語が同程度の複雑さを備えているという前提は、あくまで、良く言えば、そうであるはずだという経験的な信念、悪く言えば、希望的観測に過ぎない。

とりあえず、言語学では一般に、ある2人の母語が違ったとしても、その2人の見える世界はまったく同じで、思考のしかたも変わらない、もしくは表面的なものにすぎないとされている。ところが本書は、「言語が違えば、世界も違って見える」と、堂々と銘打っちゃっているのである。

筆者のドイッチャーは、今述べた3つの問題に、果敢にも挑戦した。つまり、一般の言語学ではちょっと冒険的で、ところによっては異端な主張をしたということになる。彼の明言するところでは、言語は思考にいくらか影響するし、文化は言語の形をけっこう変えるし、言語の複雑さなど均一ではないのである。

彼が例として挙げるのは、まず色。色名の付け方には、それぞれの文化の自由がかなり認められている。たとえば日本の「アオ」は、伝統的には緑あたりも含んだ。そして方向感覚の問題。「右」と「左」は絶対的な空間認知なのだろうか。左右の言葉を持たない人がいるとしたら、その人の空間認知は違うのだろうか。そして、ヨーロッパ言語などに見られる文法的性(ジェンダー)の問題。ある名詞(たとえばスプーン)が男性名詞か女性名詞かによって、スプーンに対する印象は違ってくるのだろうか・・・。

「原始的な言語は存在しない」というのは疑いの余地なく真ではあるが、それが「すべての言語は同程度に複雑である」という結論の十分条件ではないことは、初歩の論理学を知っていれば確かに分かる(129-130ページ)。

ドイッチャーの扱う例は言語活動のごくごく一部なので、あまり包括的な主張はできない。しかし、本書がここ数十年の言語学に対する挑戦であることに違いはない。

言語学を専門としない人にも読めるよう書かれているが、同じく一般向けだったD・エヴェレットの『ピダハン』に似て、言語学の主流でない微妙なトピックを扱っている。(Amazonでの評価がとても高いからといって、言語学界でも評判がいいとは限らない・・・。)私は、「鵜呑みはしない鵜呑みはしない・・・」と心しながら読んでいたが、筆者の論理展開にはだいたい同意できる。

蛇足だが、読売新聞のこの書評にあるように、ドイッチャーはチョムスキーの「『普遍文法』が幻想である」とまでは言っていない。