2012年4月24日火曜日

言語とは何か:「言葉のない世界に生きた男」イルデフォンソ

What if a human fails to acquire a language? The world without a single word. This book describes how Ildefonso, a Mexican man who was deaf and thus did not know what language was like until he was 27 years old, opened his eyes to the world of words and signs.

He did not know the concept of the past, the future, time, races, and so on because of the lack of language. After all, what does language provide to us? This book made me ask this question.

A Man Without Words by Susan Schaller (First published in 1991)

More details in Japanese:

(グローバルな読者に向けて、英語でも書きました。)

今学期は大学で「手話の世界」という授業をとった。予習のためにオリバー・サックスの「手話の世界へ」も読んだ。手話にさらなる興味を持ち、英語プログラムの授業のエッセイのテーマも手話にした。本書はその資料になるかなと思い借りてきた。だが、エッセイどころではなかった。

あまりのドラマに、本をめくる手が止まらなかった!!(もっとも、ぶっ通しで読んだわけではないが。)

本書のテーマはこうだ:もし人間が言語を獲得しなかったとしたら?

言葉のない世界に生きた男 [単行本] / スーザン シャラー (著); Susan Schaller (原著); 中村 妙子 (翻訳); 晶文社 (刊)

言語獲得に失敗した人々の有名な例は、野生児だろうか。アマラとカマラを始め、「アヴェロンの野生児」ヴィクトール、カスパー・ハウザーなどは、思春期ごろまで全く言語に触れることがなかった。しかし彼ら野生児は、人間社会からも切り離されていたわけで、言語「だけ」が無かったのではない。では社会との関わりは持ちながら、言語だけを持たない人はいるのか。それが、まさしくろう者の中に見出される。

本書は、そうした言語をインプットされなかったろう者、それも、成人になるまでついぞ言語の概念を知ることがなかった1人の男の話だ。

その男、メキシコ出身のイルデフォンソは、言語という概念を欠いていた。彼と著者のS・シャラーの途方もない努力で、彼はついに名前の存在する世界に覚醒する……。

言葉を得ずして成人してしまった人は、少ないが、確かにいる。それなりの施設に行けば、(少なくとも当時のアメリカでは)そのような人は容易に見つけられた。だが、(これは大きい「だが」である)彼らに関する論文、書籍は、文字通りゼロだったという。少し考えてみれば、イルデフォンソと同じような人々がいても全く不思議ではないのに。

言葉がないイルデフォンソには、過去も未来も、動詞も疑問文も、時間も、国境も、人種も分からなかった。言葉が無いとは、どういうことなのか。言葉を使わず、人間はどう考えるのか。言葉なしで、伝えられるものはあるのか。

そして、言語は私たちをどこまで規定するのか。それが私が本書で得た根源的な問いである。

2012年4月14日土曜日

「美しい日本語の響き」という本を…読みませんでした

「美しい日本語の響き」という本を読むつもりだったが…、読むのはやめた。

美しい日本語の響き―母国語を知り、外国語を学ぶためのレッスン [単行本] / 篠沢 秀夫 (著); 勉誠出版 (刊)



日本語の音に関する、言語学的な小話集だ。先日図書館の新刊の棚にあったときパラパラと読んでみたら、なかなか面白そうだったのだが、昨日もっとゆっくり眺めてみたら、いろいろと気に入らなかった。だから借りるのはやめた。

気になったところを、気になった順に書いておこう。

まず、タイトルへの違和感は始めからあった。「美しい日本語の響き」。まるで日本語の音は特に美しいとでも言っているようだ。もちろんはしがきにもあるように、これは(正確には忘れたが明治あたりの)日本語を聞いた外国人の感想らしいから、筆者の直接な主観じゃないかもしれないが、すべて言語には優劣は存在しないという言語学の(ほぼ)常識から見て、アカデミックな本書にこの言語ナショナリズム的タイトルは気になる。

そして読んでみてすぐ気付いたのが、体言止めと「!」の多用だ。もう少し分析すると、短文が多く、それに伴って接続詞が少なく、そして過剰なまでに多段落構成なのも気になった。文がカタカタと区切れるので、読みにくかった。(これが好きな人もいるかもしれないが。)

再現するとこんなふうだ:「読んでみてすぐ気付いた。体言止めと『!』の多用! もう少し分析しよう。短文の多用、それに伴う接続詞の不十分な使用、そして過剰なまでの多段落構成! 文がカタカタと区切れる。だから読みにくい。」

言っていることは同じなんだし、もしかしたらこれは名著なのでは?と思うだろう。でもだめだ。働き盛りでサバサバカタカタした方が書いたのならまだ読めたかもしれないが、なにせ著者は80近い大御所学者なのだ。著者のイメージと文章とのギャップに拒否反応が出てしまったから、読む気が出なかった。それに、もしこれが名著なら、それがこんな文体で書かれないのではないか。

決定打を2つ挙げよう。まず、著者が一貫して使っていた「母国語」という語はやはり不適切だ。「母語」とすべきだろう。なぜなら、国境と言語境界は一致しないからだ。「母国語」という言葉には、国と言語は1体1に対応するという思想が含まれているが、話はそう簡単ではない。例えば日本国籍を持ち日本に住みながら、英語を生得言語とする人の「母国語」は何なのか。フランス語を生得言語とするベルギー人の「母国語」は何なのか(ベルギーはフランス語、オランダ語、ドイツ語の3言語共同体である)。あなたの「母国の言語」は何ですかと聞かれて、どのように答えるのだろうか。このようにいろいろとややこしいのだ。

そして2つ目は、あまりに堂々とした誤植であることを願う。ああ、「通り」は「とうり」とは振らないぜ、著者さん。

往年はフランス政府留学生試験に首席合格の、キレるフランス語学者だそうだが、語弊満載で総括すれば、ご年配がやけにはしゃいだ自己満足本という感想を持った。

最後に少し弁護しておこう。内容は一応正しそうだったし、日本語学に興味がある人にとってはうんちくに満ちていた。

2012年4月11日水曜日

手話の深遠な世界に触れる:オリバー・サックス「手話の世界へ」

今日から今年度の授業が始まった。もう大学2年生である。

おととい、また本を借りてきた。

1冊目はまた写真集だ。日本遺産 神宿る巨樹 The marvelous trees in Japan [単行本(ソフトカバー)] / 蟹江 節子 (著); 吉田 繁 (写真); 講談社 (刊)といい、新刊の棚で偶然見つけた。

日本遺産 神宿る巨樹 The marvelous trees in Japan [単行本(ソフトカバー)] / 蟹江 節子 (著); 吉田 繁 (写真); 講談社 (刊)

日本の巨樹が多数収められている。タイトル通り、私も巨樹には威厳や神秘性を感じるので、けっこう惹かれる。写真でさえ見応えがあるのだから、この目で直接見たらそれは感動するに違いない。どれでもいいから、巨樹を見に行きたくなった。

さて、2冊目は、またまたオリバー・サックス博士だ。読了までに足掛け2日、私にしてみれば意外なほど速かった。 

手話の世界へ (サックス・コレクション) [単行本] / オリバー サックス (著); Oliver Sacks (原著); 佐野 正信 (翻訳); 晶文社 (刊)

手話の世界へ (サックス・コレクション) [単行本] / オリバー サックス (著); Oliver Sacks (原著); 佐野 正信 (翻訳); 晶文社 (刊)

本書を手にとったのは、これもまた幸運な偶然からだ。私は、この春学期「手話の世界」という授業をとる予定だった(手話の文化的、社会的、言語学的な側面を概観する授業だ)。そしておとといの9日、それとは全く独立に、何気なくICU図書館のサックスの著作を調べていたら、本書を見つけた。これはちょうどよかった。つまり本書は、「手話の世界」の予習として読んだのだ。

そもそも私が手話に関心を寄せ、その授業をとろうと思ったのは、全く言語学的な興味からだ。高校のとき(もしくは大学入学直後のとき?)に、手話は単なるジェスチャーではなく、文法を持った言語であるということを知ったときから、手話にほんの少しながら興味を持ったのである。だが私は、手話にまともに触れたこともなければ(母が手話の本を持っていたので、それを使って指文字を覚えてみたことがあるくらいで)、本も読んだことがなかった。

本書は、そのような初心者の私をして手話に関する驚くべき諸事実を知らしめ、それに伴い(もちろん良い意味での)様々な疑問を抱かせた。

話される言葉(口話)は、単語が次々と並べられていくという、線形的(1次元的)なものである(これは大学の授業でも学んだ)。しかし手話は、3次元の空間において、それも同時的、重層的な表現をしているのだという!(それが具体的にどういうことなのか詳しく説明は無かったが。)この事実ただ1つでさえ、私を手話の世界に引き込むに十分だった。

手話は私が思っていた以上にはるかに高度で、豊かだった。いやこれは少し語弊がある。つまり、手話は、入力、出力方式こそ違えど、口話と全く同じレベルの完璧な言語であるという確信を持った。

手話、聴覚障害というノータッチの分野だったが、本書はサックスファンとしての私と、言語学好きの私とをつなげる、意外にして重要な役目を果たした。別々と思われた2つの興味が、思いがけないところでリンクするものである(もっとも、私の関心の向くところはそもそも根本では共通している気もするが)。可能なら関連書籍も読んでみよう。

ついでに言えば、このマイナーであり、誤解や偏見も多い手話の世界を、もっと多くの人に知ってもらいたいと思った。本書は難しくないので、その導入の1つにもいいかもしれない。

とりあえず1冊読んで、授業に臨む心構えができた気がする。英語開講というのがやや不安要素ではあるが…。

2012年4月8日日曜日

伊藤まさこさんが城下町松本の魅力を発信:「松本十二か月」

とても暇だったので、さらっと本でも読むかと思って、今日の昼下がり、ICUの満開の桜を見がてら、2冊借りてきた。

1冊目は、久しぶり地形関連の本だ。地形や絶景などを収めた写真集は多いが、私の好みに合うものは、少ない。本書は、絶景であるとともに地質学的に興味深い地形を集めている。昨年10月に読んだ「世界のおもしろ地形」と同類の本であり、楽しめた。知っているところも多かったが、初めて知ったところもあった。

アフロ、アマナイメ-ジズ(2012)『地球不思議の旅―大自然が生んだ絶景』パイインターナショナル

地球不思議の旅―大自然が生んだ絶景 [単行本(ソフトカバー)] / アフロ, アマナイメ-ジズ (著); パイインターナショナル (刊)

雄大にして悠久の絶景で世界一周をした後は、我が国の一地方都市に焦点を当てた。2冊目は、一気にスケールを縮めて、伊藤 まさこ(2011)『松本十二か月』文化出版局という本だ。

松本十二か月 [単行本(ソフトカバー)] / 伊藤 まさこ (著); 文化出版局 (刊) 

長野県松本市は私の地元である。著者は横浜出身だそうだが、松本にかれこれ数年暮らしているらしく、きれいな写真と文章で松本の魅力を綴っている。本書は文化と歴史が中心的だったので、そのイメージだけで松本に来たら違和感を覚えるだろうが、地元民の私も知らなかった歴史、工房、伝統工芸、美味しそうな食べ物屋さんなどなどに、とても心惹かれた。松本にこんなに伝統と楽しみがあったとは驚きである。

未知の地に広がる雄大な地形より、なじみの町にある小さなお菓子屋さんの方に、ずっと温かみを感じた。

2012年4月6日金曜日

また読んだぜオリバー・サックス博士:「火星の人類学者」

1か月半ほど前に借り、タイワークキャンプのブランクを挟み、10日ほど前に読み終わった本、火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 [単行本] / オリヴァー サックス (著); Oliver Sacks (原著); 吉田 利子 (翻訳); 早川書房 (刊)だ。


サックス博士の他著は、先日「妻を帽子と間違えた男」を読んだ(記事はこちら)ので、これが2冊目だ。本書は、様々な障害を持つ(または陥った)7人の人物を取り上げ、博士がその生活を追う。全色覚異常の男性、記憶喪失の男性、異常な記憶力の男性、自閉症にして研究者である女性など、彼らの体験は様々だ。7人のうち3人は、それぞれ高校の授業、テレビ、インターネットで知っていた。

博士の著書に共通することだが、彼は患者を、症状による機械的な捉え方をせず、1人の人間として全人的に見る。患者の抱える異常に隠れた、素晴らしい人間性を見出そうとするのである。そこがよい。人間の(良い方向でも悪い方向でも)可能性を見せてくれると同時に、障害者と言われる人たちの温かみや才能に気付かせてくれるからだ。

そして、彼らを観察することは、私たち人間一般の理解にもつながる。特に私は知覚というものについて色々と思考を巡らさずにはいられなかった。例えば、子供時代に視力を失った中年の男性が、手術で光を取り戻した話の中でだ。17世紀の哲学者ウィリアム・モリヌーがジョン・ロックにこう問うたという。

「生まれながらの盲人が、手で立方体と球体を識別することを学んだとする。そのひとが視力を取り戻したとき、触らずに……どちらが球体でどちらが立方体かを見わけることができるだろうか。」(122ページ) 

この話の男性は、視力を取り戻したが、さて彼は触覚で識別したものを視覚でも見分けられただろうか。私はできるだろうと思った(というか、できないということが想像できなかった)。しかし驚くべきかな、答えは否なのである!

私たちが当たり前だと思っているものも、通常とは異なる世界にいた人の中では成り立たないのだ。私たちが彼の知覚を想像しようにも、できないのである。

人間とその知能について、興味深い実例と洞察を得られる本である。

友達がママチャリ(+フェリー)で東京から沖縄まで行ってきた

大学のセクションメイトのシンタが、ママチャリ+フェリーでの東京ー沖縄の旅を先日ついに成功させた。

彼はこの春休みを使って何か大きな事をしたかったようで、それでロードバイクを使わない、普通のママチャリでの無茶な旅を思いついたそうだ。3月9日に都心の彼の家から出発して、大阪までチャリ、そこからフェリーで沖縄まで行き、29日にフェリーで東京に帰ってきた。3週間の一人旅だ。

最初は全国の友達の家に転々と泊まらせてもらう予定だったそうだが、現実問題それはできなかったようだ。いや寝泊まり云々以前に、最大の難所である箱根の峠をママチャリで越えられるのか、そこで早くも断念するのではないかと私たち友人間で真面目に懸念していたのだが、3月10日、彼は国道1号線最高地点の写真ともにツイッターでつぶやいた。

箱根越えキター♪───O(≧∇≦)O────♪

彼は「山の神」こと柏原竜二の走りよろしく、箱根越えをやってのけたのだ。これには驚いた。いつもへらへらした軽い彼が、「天下の険」と言われた(参考はこちら)難所を制覇したのだ。私のシンタへの視線は、そのときを境に心配から応援へと変わった。

彼は何かにつけ軽いやつなのだが、その分相当に社交的で、彼のブログを見るに、その後各地のホテルやゲストハウスで、様々な年齢、境遇、職業、国籍の人と仲良くなったようだ。彼だからこそできる芸当だ。人との交流が、彼をいちばん楽しませたのではないかと思う。

シンタは3週間でどのように変わったのだろうか。いや、案外変わったのは肌の色だけかもしれないな。あっけらかんとして。

詳しくはこちらで:シンタの自転車旅日記(彼のブログ)

2012年4月5日木曜日

タイの少数民族の村で教会の床を作るワークキャンプ(まとめ)

やっとタイワークキャンプの9日間をまとめ終えた。

さて、以下に、先日私がICU宗務部に提出したTWCの報告書を、ブログ用に修正して掲載する(文章自体は変えていない)。わざわざ掲載する理由は3つある。(1)時間でない軸でまとめられているから。(2)これまでの記事に書かなかったことが書かれているから。(3)簡潔であり、まとめ的な性格を持つから(9日間のTWCがA4紙1枚に詰まっている)。

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タイワークキャンプ
百瀬 2012年3月

(この素晴らしい9日間を、この少ない紙面にどう収めたものか。)
私がこのTWCで得たものは、4つに分けられる。人、言語、食文化、そして生活と伝統だ。

――多くのPYU生やスタッフ、ホイクンの村の人たち、そしてICUのみなさんと出会った。「友情は喜びを2倍にし、悲しみを半分にする」とはドイツの詩人シラーの言葉だそうだが、まさに真理である。毎日毎日、たくさんおしゃべりし、笑った。村での夜のレクリエーションは、本当に楽しかった。村人の暖かさにも触れた。村の子供たちは、みんな挨拶を返してくれた。あと、さもこちらが理解しているように普通にタイ語で話しかけてきたおじさん、私の乏しいタイ語ボキャブラリーで「食事」としか答えられなくてごめんなさい。

言語――理由もなく言語が好きだ。ツールとしてではなく、言語そのものが好きだ。日、英、タイ、カレンの4か国語の飛び交うこのワークキャンプでは、私の言語学的好奇心も大いに刺激された。タイに行く前に、少ないながらもタイ語の知識を持っていたことは、大いに役に立った。PYUのみんなのおかげで、2、30の単語を覚えられたし、しばらくサボっていたタイ語をまたもっとしっかり勉強しようと思った。それに、カレン語というマイナーは言語に触れられたのも嬉しかった。このチャンスを活かすべく、ドイにカレン語の数字を教わった(もうスラスラ言える!)。

食文化――タイの食べ物は、おいしく、大好きになった。辛くて、甘くて、ヘルシーでもあった。タイにまた行きタイと思わせる最大の動機の一つだ。

生活と伝統――タイの衛生環境と交通環境には慣れた。むしろ、楽しんだ。沢木耕太郎の『深夜特急』を少し読んだことがあったので、それなりの覚悟はしていたのだが、寮の部屋といい、村のトイレ設備といい、PYUのトラックの屋根といい(屋根無しを想像していた)、確かに日本のとは違ったが、予想以上に居心地は良かった。逆に、手洗いの洗濯や、濁った水での手洗いや、油まみれの水での皿洗いをするにつけ、日本は清潔過ぎると思った。これだけ衛生状態がよろしくなくても、私は食中毒にならなかったのだし。(「回虫博士」藤田紘一郎氏も、日本の潔癖主義に警鐘を鳴らしている。)

そして、カレンの村でのホームステイは、なんて貴重な体験だったのだろう! 民族衣装、木造の家、囲炉裏、チャボ、豚、坂道、赤土、まな板……。都市では味わえない、伝統の残る生活様式の体験は、人生の肥やしになった。

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このTWCで得たものは計り知れない。観光では絶対味わえない経験と出会いと挑戦があった。このようなイベントが、今後何度あるだろうか。この9日間は、間違いなく人生の糧になった。

2012年4月3日火曜日

タイの少数民族の村で教会の床を作るワークキャンプ(18-19日)

10日 出発とパヤップのお出迎え
18日 Umbrella Village、そして別れ
19日 機内泊)

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傘の村

7時起床。朝食までの間に、ホイクンでのPYUのルームメイトみんなに書のメッセージを書こうと思い、書道用具を出したら、墨(固形)が無いことに気づいた。村で落としてしまったのかもしれない。おとといの夕食のときかもしれない。仕方が無いので、すべてボールペンで書いた。

8時より朝食で、9時ころ、そのまま歩いてPYUの教会の礼拝に歩いて行った。ちなみに、途中セブンイレブンに寄ったが、日本のと変わらなかった。日本語の書かれた商品もパラパラと見かけた。

10時より礼拝。正直、礼拝はちょっと暇だ。英語は少し話してくれるものの、タイ語は分からないし。

12時ころより、教会でお昼ごはんを頂いた。タイ語でバイブワボという野菜の緑色のジュースを、それとは知らずに飲んだのだが、薄めの雑草ジュースに砂糖を入れた感じのまずさだった。タイ料理はほとんど外れが無かったのだが、これだけはダントツに受け付けなかった。

教会にトラックが来て、1時ころ、そのまま今度は近隣のBow Sang Umbrella Villageというところに観光に向かう。ここは名前の通り傘が有名で、傘工房も見学できるそうだ。

1:20から2:50まで、見学も含めおみやげを自由行動で買えた。傘工房は売り場も含め立派な建物で、制作現場も見学用に整備されていた。ミニから特大まで、カラフルな傘がたくさん売っていた(実用ではないようだった)。


傘には結構力を入れていたが、そこのマーケット自体は規模が小さく、おみやげのレパートリーは少なかった。ここは服などの布雑貨が多かった。人も少なかった。しかしまだ私は自分へのものしか買っていなかったので、ここで何か買わなければならない。まず、買ってこなければ恨んで相当根に持つであろう妹へ、Tシャツを買った。古いチェンマイ方言のラーナー語で「ハロー チェンマイ」と書かれた白いTシャツだ。サイズ等、PYU生のファイに手伝ってもらった。彼女は169バーツのところを、160B300円弱)に値切ってくれもした。

それから、高校書道部の後輩の卒業記念に何か探したが、迷った末、ストールを買った。4つで135Bだったが、130Bへと小心な値切りをした。

この傘の村や昨晩のナイトマーケットを思うと、11日のストリートマーケットの安さと規模は非常に魅力的だった。やや惜しいことをした。またチェンマイに来るときにはストリートマーケットを存分に楽しむとしよう。


別れ

それから1PIHに戻り、シャワーを浴び、プレゼントのメッセージを書き、荷物詰めを終わらせる。4時半、PIHをチェックアウトし、少し早いがタイでの最後の晩餐に向かう。

あっという間に9日間は終わり、おいしくて楽しかったタイの料理もこれが最後だ。別れを惜しみ合っている人もいる。私は食後、エリックやルームメイトなど、4人にメッセージをプレゼントした。特にエリックには、「一期一会」と筆で書き、その説明や別れの言葉を添えた。他の人のも、日本語にメッセージを添えた形式だ。

ああ、本当に終わってしまう。だが、飛行機に乗り遅れるわけにはいかない。5時半、食堂を出て空港へのトラックを待つ。

チェンマイ空港へのトラックの中で、どこからか、パヤップソングのリクエストがあった。パヤップの校歌で、このキャンプ中数度聞いていた軽やかな歌だ。最後に1回聞くのもいい。リクエストに応えPYUの皆さんが歌ってくれると、今度は彼らがICUソングをリクエストした。もちろん私たちみんなで歌ってあげた。本当に幸せなひとときである。

6時ころ、空港着。トラックを降りた端からみんな写真を撮りまくって収拾がつかなかったが、先生たちの必死の号令のもと、とりあえず荷物預けなど手続きを済ませ、PYUのみんなが付いて来られる最後の地点、出発ラウンジに集まる。

そこでICUPYUの最後の集合写真を撮った。

そして全員で輪になり、(PYU側はどこで知ったか)「蛍の光」を歌った。くそ、別れ際にこの曲とは、感動だな。Thank you Payap!!!

さようなら。

ここでお別れ。いつまでも手を振ってくれるPYUのみんなに手を振り振り、再び荷物検査と出国審査を受ける。

7:32、チェンマイを離陸。

******

8時半にバンコク着。そこで長い空き時間を過ごし、10:55、バンコクを離陸する。タイを飛び立った。日本に帰りたくなかった。日本の生活に戻りたくなかった。

飛行機はやはりくつろげなかった。機内泊だったが、ほとんど寝られなかった。しかも、朝3時に朝食とか、余計なお世話だ。腹も減っていないし……。

午前4時(日本時間6時)、成田に着陸だ。おはよう……、日本。

7時、解散である。7:35に成田空港駅を出、ごみごみした都心を抜け(タイから戻るとそれをいっそう感じる)、10時、私の狭いすみかに着いた。舗装された地面、建物に囲まれた窮屈な街にある私のアパートの前で、少し空を見上げてみた。

最後の晩餐の席及びチェンマイ空港での待ち時間など
にて書いたものに修正

2012年4月1日日曜日

タイの少数民族の村で教会の床を作るワークキャンプ(17日)

10日 出発とパヤップのお出迎え
17日 献堂式とパヤップへの移動
19日 機内泊)

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ホイクンとの別れ

6:50に起きる。相変わらず筋肉痛がひどい。

荷物をまとめるなどし、8時より家で朝食。(昨晩は除き)最後までホストファミリー全員と共に食事をすることはなかったが、今朝はホストブラザーのジョッガーが少し加わってくれた。今朝は肉の揚げもの、卵の炒めもの、(米ではないが)粥みたいなものなどだ。

9時前、家の前で家族とみんな揃って写真を撮ろうということになったので、その前に、私が日本から持ってきたおみやげの森永のキャラメルと、昨日教会でA5ノートに書いた「愛」字をプレゼントした。

そして、足掛け6日間お世話になった家を離れる。毎日が新しかったホイクンの生活もこれで終わりだ。もっとここに住んでもいいと思った。

現役教会付近でたむろしていると、セムが話しかけてきた。いつの間にか仲良しだ。別れを惜しみ、握手を交わした。

みんな集まった。献堂式を始めるべく、新教会に行ってみると、なんと入り口にテープカットの用意ができていた。カットは、ICU教会牧師の北中晶子先生が行った。教会には。整然と椅子が並べられていた。献堂式では、このキャンプで何度も何度もしてきたように賛美歌を歌い、お祈りをしたし、他細々と。まあかための式だ。

10時半ごろだろうか、式典が終わり、教会で村人、PYUICU全員での一番大きい集合写真を撮った。その後、私は村の少年らに誘われて写真を撮ったり、ホストマザーと撮ったり。みんなまるで写真撮影大会だ。

PYUのトラックはもう来ていた。最後に荷台の前に、村人たちが列をなし、私たちひとりひとりと握手をしてくれた。本当にありがとう! ダブルゥ!(カレン語でありがとう!)

11時過ぎ、予定を1時間過ぎて村を出た。


PYU

トラックは騒音を出しながら猛スピードで飛ばす上、縦横無尽に揺れる。それでも、人の睡眠欲を打ち消すことは出来なかった。1/3くらいの人が、多少なりとも寝ていた。

12時が1/3ほど終わったころ、道沿いの食堂で昼食をとる。チャーハンとスープだった。

PIHに着いたのは、16時だった。久しぶりに「きれいな」部屋に戻ってきた。昨日はシャワーを浴びられなかったので、温水が出てシャワーの設備もある「普通の」シャワーを浴び、伸びたひげも剃り、すっきりする。しばしの安らかな休息だ。

巨大な寮、PIH

6時前、それなりに小ぎれいな格好をしてPIHの入口に集合。今日の夕食に、よさげなレストランに連れてってくれるという。

だが、6時に出発とあったのに、トラックが来ない。全然、来ない。どうやら、トラックの手配の手違いがあったらしい。ぼけーっとしていたら、フィリップがギターと楽譜を持ってきて、ドイと一緒に意味不明な日本語の歌を歌い始めた。フィリップが作詞作曲らしいが、知っている日本語を並べただけのようだ。サビが忘れられない。「ヤキモ~~ ヤキモ~~ ヤキモ~~ ヤキモ~~~」。以後、ヤキイモがフィリップの半ば代名詞になった。

それでも来ず、今度はアメリカ出身のエリックとケイティに、アメリカンダンスを教えてもらった。寮の前の広場でみんなで整列して踊ってみもした。簡単なので今もまだ踊れる。

それでも来ず……、全員で大きな輪になって、リーダーエリックのもといろいろなゲームをした。このキャンプ中、エリックとフィリップのコンビは本当にいろいろなレクゲームを知っていて、そして彼らに本当に笑わされた。

蚊に足を何か所も刺された。タイの蚊の免疫がなく、とても痒かった!

迎えが来たのは、結局8時だった。2時間も遅れた! 今までの大きいトラックではなく、消防車を彷彿とする真っ赤な小さいのが、6台も来た。10人乗りくらいだったので、4台くらいしか使わなかったのだが。

そのトラックは、シートがしっかり備わっていて座り心地はよかったのだが、狭くて天井が低くて、人との接触がさらに大だった。さらに、大きいトラックにはまだ(よくあるような)跳ね上げ式の囲いがあったのだが、これにはそのような安全装置は何もなく、一歩踏み出せばそのまま道路に放り出された。私はいちばん後ろの席だったので、スリリングだった。

20分ほど走って、ちょっと繁華なところに降ろされた。そしてビルに入り案内されたのは、豪華にセッティングされた会場だった! 想像以上のクオリティに、半袖+7部丈短パンは場違いな気がした(この格好で象にも乗った)。まあみんな同じような格好だったから、問題なかったのだが。でも、虫が飛んでいるところは村でもレストランでも変わらなかった。これがタイでは普通なのだろう。

それにしても、食事とセットの高級さに、朝のシンプルな食事との乖離を感じずにはいられなかった。

スパゲッティなど洋食もあった。こういうところは普通の観光でも来られるから、別に来なくてもよかったかもと思った。


ナイトマーケット

スケジュールでは、ディナーのあとはナイトマーケットで買い物になっていた。でもレストランを9時後半に出て、マーケットに10時過ぎに着いたので(本来ならPIHに着いている時間だ)、あまり時間が無い予感だ。思ったよりマーケットの閉店時間も早く、閉まっている店もしばしばあった。人も少なく、がらがらだった。

30分も歩かないうちに、案内役のフィリップが雑多な交差点に止まった。他のグループの人もそこに集まりだした。PYU側で終了時刻の打ち合わせだろうか。

待っている間、交差点の角にあった食べ物屋の無料のバナナを頂いたり、友達にバナナのクレープを少し分けてもらったり。

結局11時ころ、そこから赤トラックで帰路に着いた。何も買えなかった。が、トラックの中でPYUの友達が、ナイトマーケットはとても高いから買わなくて正解だったと言われた。11日に行ったストリートマーケットが安いらしい。……それをもうちょっと早く言って欲しかった。

20分くらいでPIHに着き、明日の帰国のために少々荷物を詰め、このジャーナルを書く。

今日はド田舎から高級レストランまで、振れ幅が大きい1日で疲れた。12:20ころ、Good night

PIH C115、及び翌チェンマイ空港での待ち時間、東京への機内
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